奈良県

便り

松尾寺-奈良県大和郡山市

・松尾寺 単立(松尾山真言宗) 奈良県大和郡山市山田町683松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、勅命による日本書紀編纂の折、42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立された日本最古の厄除霊場です。(リンク先より) << 戻る
便り

壷阪寺-奈良県高市郡

・壷阪寺 真言宗 奈良県高市郡高取町壷阪3・第五番 ⇒ 西国三十三所 第六番 壺阪山 南法華寺 (壺阪寺) ⇒ 第七番創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりと言われる(リンク先より) << 戻る
便り

長谷寺-奈良県桜井市

・長谷寺 真言宗豊山派 奈良県桜井市初瀬731-1・第七番 ⇒ 西国三十三所 第八番 豊山 長谷寺 ⇒ 第九番当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺(はせでら)と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。 「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面...
便り

西南院-奈良県葛城市

・西南院 高野山真言宗 奈良県葛城市當麻1263當麻寺 塔頭 西南院は、當麻真人国見が麻呂子親王によって草創された萬法蔵院を、白鳳12年 百済の僧正恵潅を導師に迎え當麻寺として還造した時、坤(裏鬼門)の守の寺院として創建されたのが始まりで、西塔の別当となった。(リンク先より)白鳳12年 683年 << 戻る
便り

薬師寺-奈良県奈良市

・薬師寺 法相宗 奈良県奈良市西ノ京町457六八〇年 天武天皇 皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、薬師寺建立を発願する。 六八六年 天武天皇崩御。皇后であった鸕野讃良皇女が持統天皇として即位される。六八八年 無遮大会を薬師寺に設ける。六九八年 薬師寺講堂阿弥陀大繍仏の開眼供養を行う。この時ほぼ講作が終り僧侶を住まわせ始める。(リンク先より)※2020年9月確認時点でアドレスの変更があったため更新しました。<< 戻る
便り

矢田寺-奈良県大和郡山市

・矢田寺 高野山真言宗 奈良県大和郡山市矢田町矢田寺3549「矢田のお地蔵さん」で親しまれている矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、 城下町・郡山より西へ3.5キロ、矢田丘陵の中心矢田山の中腹にあり、 日本最古の延命地蔵菩薩を安置しています。今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ…後の天武天皇)が、 壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、 七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが当山の開基です。(リンク先より)※白鳳4年 675年 << 戻る
便り

興福寺-奈良県奈良市

・興福寺 法相宗 奈良県奈良市登大路町48・第八番 ⇒ 西国三十三所 第九番 興福寺 南円堂 ⇒ 第十番法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。 その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置する為に造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、...
便り

石光寺-奈良県葛城市

・石光寺 浄土宗 奈良県葛城市染野387天智天皇(668~671在位)の勅願で建てられ、 役小角(えんのおづぬ)の開山と伝えられる。境内に奈良時代前期と言われる塔の大心礎があり、 平成3年には弥勒堂改築に伴う発掘調査の結果、日本最古の白鳳時代の石仏(当時の本尊)と他に瓦や仏せん(せんぶつ)が出土。(リンク先より) << 戻る
便り

千光寺-奈良県生駒郡

・千光寺 真言宗醍醐派 奈良県生駒郡平群町大字鳴川188修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)は、舒明天皇6年(634年)元日、出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)と賀茂役氏の娘の白専女(しらとうめ)の子として、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれました。幼少期の時より山に入り、修行を積み、修験道を開かれました。後に成人し、金剛葛城山において仏道修業に励まれました。西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置しました。その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われました。(...
便り

龍泉寺-奈良県吉野郡

・大峯山 龍泉寺 真言宗醍醐派 奈良県吉野郡天川村大字洞川494白鳳年間(645〜710)役行者(えんのぎょうじゃ)が大峯を開山し、修行していた頃、山麓の洞川に下りられ、岩場の中からこうこうと水が湧き出る泉を発見されました。役行者がその泉のほとりに八大龍王尊をお祀りし、行をしたのが龍泉寺の始まりであると伝えられています。この泉を「龍の口」と言い、この地を龍神様の住まわれる泉ということから、龍泉寺と名付けられました。(リンク先より) << 戻る
便り

法輪寺-奈良県生駒郡

・法輪寺 単立 奈良県生駒郡斑鳩町大字三井1571当寺の創建には二説が伝えられています。ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王がその子由義王らと共に太子のご病気平癒を願って建立されたという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』) もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)です。昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似...
便り

達磨寺-奈良県北葛城郡

・片岡山 達磨寺 臨済宗南禅寺派 奈良県北葛城郡王寺町本町2-1-40『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。(リンク先より) << 戻る
便り

法隆寺-奈良県生駒郡

・法隆寺 聖徳宗 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1聖徳太子が斑鳩宮を造営されたのは推古天皇9年(601)。ほどなく太子は、ここに亡き父用明天皇のため寺の造立を発願され、推古15年(607)ごろに完成したのが法隆寺です。 太子は中国の優れた政治や文化、とりわけ仏教を積極的に取り入れ、四天王寺、中宮寺、広隆寺などの寺々を建立し、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣などによって国の発展を計られましたが、惜しくも推古30年(622)49歳のとき、人々の悲嘆の内に薨去されました。(リンク先より)<< 戻る
便り

成福院-奈良県生駒郡

・成福院 信貴山真言宗 奈良県生駒郡平群町信貴山2280信貴山大本山成福院は信貴山総本山朝護孫子寺の塔頭寺院です。信貴山は587年(用明2年)聖徳太子により開山され、塔頭たる成福院の建立時期は不明なものの、後嵯峨天皇とのご縁から1200年代以降と思われ、1577年(天正5年)松永久秀の乱により焼失後、1790年(寛政2年)に再興され現在に至っています。(リンク先より) << 戻る