臨済宗妙心寺派

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龍門寺-岐阜県加茂郡

・龍門寺 臨済宗妙心寺派 岐阜県加茂郡七宗町神渕44311308年、岐阜長良に輪番制の寺として、福光山龍門寺が創建されました。戦国時代に兵火により焼失しましたが、創建後150年ほど後に、当地に移転されました。(リンク先より) << 戻る
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温泉寺-岐阜県下呂市

・温泉寺 臨済宗妙心寺派 岐阜県下呂市下呂町湯ノ島680「天歴年中この地の山中に、はじめて温泉湧出せり。地名を湯ガ峰という。」『飛州志』『斐太後風土記』ともに湯ガ峰の温泉湧出を天暦年間(947~957年)と記していることから、下呂温泉は一千年以上の歴史を持つといわれている。 しかし文永二年(1265年)突然温泉の湧出が止まってしまう。その翌年、毎日の飛騨川の河原に舞い降りる一羽の白鷺に村人が気付く。不思議に思った村人がその場へ行ってみると、温泉が湧いていた。空高く舞い上がった白鷺は、中根山の中腹の松に止まり、その松の下には光り輝く一体の薬師如来が鎮座していた・・・。これが下呂に伝わる白鷺伝説で...
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禅興寺-宮城県黒川郡

・禅興寺 臨済宗妙心寺派 宮城県黒川郡大和町吉田字長福寺1禪興寺は文永2 年(1265)松島円福寺一世法心性西(ほっしんしょうさい) 禅師によって開創され、寺号を長福寺と称しました。 現在、禪興寺周辺の地域を長福寺囲いと呼んでいますが、往時の寺号に由来するものです。(リンク先より) << 戻る
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聖壽寺-岩手県盛岡市

・聖壽寺 臨済宗妙心寺派 岩手県盛岡市北山2-12-15「聖寿寺」は建長六年(1254)、南部家第二代南部実光公により初代光行公の菩提を弔うため、現在の青森県三戸郡南部町に創建されたことに始まる。開山は三光国師( 孤峰覚妙 1271~1361)、本尊は釈迦如来。かつてその一帯は南部氏の居城になっており本三戸城(もとさんのへじょう)と呼ばれていたが、後世になって聖寿寺館(しょうじゅじだて)とも呼ばれるようになった。(リンク先より) << 戻る
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神藏寺-京都府亀岡市

・朝日山神蔵寺 臨済宗妙心寺派 京都府亀岡市ひえ田野町佐伯岩谷ノ内院芝60朝日山神蔵寺は開創1221年の歴史のあるお寺で、別名:佐伯薬師として親しまれております。毎年、紅葉、桜の季節には、ライトアップして、境内いっぱいが鮮やかな色彩に包まれます。(リンク先より) << 戻る
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浄勝寺-宮城県気仙沼市

・浄勝寺 臨済宗妙心寺派 宮城県気仙沼市本吉町津谷桜子74浄勝寺の創建は建仁元年(約820年前)、尼公が馬籠の地に逃れて尼となり養光尼と号して佐藤継信、忠信の菩堤を弔うため建立したと伝えられ、養光寺と称されました。(リンク先より)※建仁元年 1201年 << 戻る
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聖福寺-福岡県福岡市博多区

・聖福寺 臨済宗妙心寺派 福岡県福岡市博多区御供所6-1聖福寺しょうふくじは建久けんきゅう6年(1195年)に鎌倉幕府初代将軍源頼朝みなもとよりとも公よりこの地を賜り、栄西禅師ようさいぜんじを開山かいさんとして創建された日本最初の禅寺ぜんてらです。山号を安国山あんこくざん、寺号を聖福至仁禅寺しょうふくしぜんじといいます。元久元年(1204年)後鳥羽天皇ごとばてんのう(後上皇じょうこう)より、日本で最初の禅寺である「扶桑最初禅窟ふそうさいしょぜんくつ」の勅額を賜りました。(リンク先より) << 戻る
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興禅寺-兵庫県尼崎市

・興禅寺 臨済宗妙心寺派 兵庫県尼崎市浜田町1-7興禅寺は建久元年(1190年)に臨済宗の開祖・栄西千光国師が宋から帰国後、西国各地を伝道した折に開山され、令和元年で創建829年に至る禅宗の古刹です。兵庫県尼崎市唯一の禅・臨済宗妙心寺派寺院です。安置されてる本尊・釈迦牟尼佛は、室町時代初期の作であり、戦国時代の再三の兵火から護られてきました。(リンク先より) << 戻る
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大安寺-愛媛県東温市

・大安寺 臨済宗妙心寺派 愛媛県東温市下林甲1216貞観元年(859年)8月、南都大安寺の行教和尚が勅を奉じて、豊前の国宇佐八幡宮より山城国男山の勧請の帰途台風にあい、松前浜に船を寄せてこの地に来た。たまたま国司散位河野伊予守興村これを信仰すること厚く、別当寺を建立して南都大安寺を遷し、大伽藍を建立して大安寺と称した。(リンク先より) << 戻る
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霊桃寺-岩手県奥州市

・霊桃寺 臨済宗妙心寺派 岩手県奥州市前沢区前沢字山下72平安時代、東北地方に仏教の伝播を図った慈覚大師円仁に由来します。承和5年(838)に、壇ヶ森と云う地に『北長谷漆寺』と云う天台宗の寺院が建立されました。このお寺には、慈覚大師円仁が一刀三礼(ノミを一回入れる度に三拝をすること)して彫ったと伝わる、像高129cmの十一面観世音菩薩木仏立像が安置されました。(リンク先より) << 戻る
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瑞巌寺-宮城県宮城郡

・瑞巌寺 臨済宗妙心寺派 宮城県宮城郡松島町松島字町内91瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在臨済宗妙心寺派に属しております。開創は平安の初めにさかのぼります。天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じ、3000の学生・堂衆と共に松島に来て寺を建立しました。この寺は延暦寺と比肩すべき意を持って延福寺と命名され、平泉・藤原氏の外護を受けました。(リンク先より) << 戻る
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大統寺-福島県白河市

・大統寺 臨済宗妙心寺派 福島県白河市字馬町26大統寺の起源は弘仁の年間(西暦810ー823)に遡ることが出来ます。当初は現在の金勝寺の近傍にありました。その後、白河法皇の時世にこの地を京の都に似ており、京の都を学ぶべしとし、「白河」の名が相応しいとしたことは良く知られていますが、法皇は勅願を以て大統寺を創建された。(リンク先より) << 戻る
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宗安寺-高知県高知市

・宗安寺 臨済宗妙心寺派 高知県高知市宗安寺598当寺由緒に、昔鏡川上流領家郷の横矢から洪水に流された不動尊が、現住地の大藤に掛かり安置された、との伝承から川上不動の名があります。開基は古く平安時代とされ大同二年(807年)と比定されています。(リンク先より) << 戻る
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聖宝寺-三重県いなべ市

・聖宝寺 臨済宗妙心寺派 三重県いなべ市藤原町坂本981平安初期大同二年に天台宗の開祖・伝教大師最澄大和上によって開かれ、当時は七堂伽藍を有する広大な境内があり、僧兵も在住していたといわれています。当寺の庭園は藤原期の造庭と推測され、回遊式の大きい池は別名浄土池と呼ばれ、浄土の世界を表していると伝えられています。(リンク先より)※大同二年 807年 << 戻る
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瑞源寺-福井県福井市

・瑞源寺 臨済宗妙心寺派 福井県福井市足羽5-10-7天平宝字2年(758)に泰澄大師によって現福井県鯖江市吉江の地に創建されたと伝わっています。宝亀2年(771)には光仁天皇の勅願祈祷所となりましたが、残念ながらその後の瑞源寺は時の流れに飲み込まれ、歴史の舞台から姿を消してしまいます。(リンク先より) << 戻る
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乙津寺-岐阜県岐阜市

・乙津寺 臨済宗妙心寺派 岐阜県岐阜市鏡島中2丁目8−1歴史も長く奈良時代(738)から続いており、弘法大師とゆかりが深い古刹で「鏡島弘法」の名称で親しまれています。京都の東寺、神奈川県の川崎大師と並び日本三躰厄除け弘法大師のひとつと数えられています。(リンク先より)(旧アドレス:) << 戻る
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大池寺-滋賀県甲賀市

・大池寺 臨済宗妙心寺派 滋賀県甲賀市水口町名坂1168天平年間(729~784)諸国行脚の高僧、行基菩薩(668~749)がこの地(現在の滋賀県甲賀市水口町名坂)を訪れた際、日照りに悩む農民のため、灌漑用水として、「心」という字の形に4つの池を掘り、その中央に寺を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置したと伝承されている。 当時の文献は、何一つ、残されてはいないが『甲賀郡志』『水口町志』によると、寺の名を「邯鄲山青蓮寺」といい、山内寺院は八ヶ寺を数え、七堂伽藍の備わった、天台宗の寺であったという。(リンク先より)<< 戻る
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大龍寺-岐阜県岐阜市

・大龍寺 臨済宗妙心寺派 岐阜県岐阜市粟野2339寺伝によると、第四十一代持統天皇の御世(686~697)に鎮護国家の為に創建されたのが始まりであります。後に禅宗に改宗されるまでは密宗寺院でした。その時代の詳しいことはわかりません。(リンク先より) << 戻る
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江岩寺-愛知県小牧市

・江岩寺 臨済宗妙心寺派 愛知県小牧市大字大山416飛鳥時代 6世紀から7世紀 (672年 壬申の乱)大山の寺 創建 発掘調査で白鳳期の布目瓦が大量に出てきたことから最初に建立された大山寺は壬申の乱後の7世紀末と考えられる。奈良時代 8世紀 大山寺廃絶平安時代 9世紀から12世紀 1113年 大山峰 正福寺 建立 天台宗、玄海上人が衰退していた大山寺を再興、尾張地方屈指の天台寺院となる。『大山三千坊』とも『西の比叡山、東の大山寺』とも称せられた。(リンク先より) << 戻る
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祥龍寺-兵庫県神戸市灘区

・祥龍寺 臨済宗妙心寺派 兵庫県神戸市灘区篠原北町3-6-2祥龍寺は法道仙人(645年頃)の開基と伝えられ古くは広國山と号す。『大阪・堺・須磨・一の谷まで一眸の下に遮る真妙の勝邑』として、平清盛の頃寺運大いに盛んであった。(リンク先より) << 戻る
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石馬寺-滋賀県東近江市

・石馬寺 臨済宗妙心寺派 滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823推古2年(西暦594年)、推古天皇の摂政であった聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めていました。そして繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲がたなびく風光明媚な風景が広がっていたのです。 聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動して再び山を下ると、松の樹につないだ駒が傍の池に沈んで石と化していました。この奇瑞に大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、馬が石と...