三重県

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本要寺-三重県名張市

・本要寺 真言律宗 三重県名張市さつき台1-137本要寺は、1756年(宝暦6年)浪速(現在の大阪市)の地に創建されました。第二次世界大戦にて本堂は戦災にあいましたが、本尊である愛染明王様を疎開することによって難を脱しました。その後、ご縁があって昭和60年前に前住職光明によって現在の三重県名張市に移築され、現在に至っております。(リンク先より) << 戻る
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放光寺-三重県四日市市

・放光寺 真宗高田派 三重県四日市市西日野町3089景揚山安国寺の経堂として創建され、念仏の場として里人皆仏門に帰依した。二〇〇有余年の繁栄も戦国時代に滝川一益の兵乱にあい、堂塔悉く焼失その後一六八六年(天明六年)華蔵院の跡地に再建、無住持として護持され、同行中より年行事を撰宅托して法灯を守り仏前を供敬してきました。(リンク先より) << 戻る
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西方寺-三重県津市

・西方寺 浄土真宗本願寺派 三重県津市芸濃町椋本332寛文3年1663年9月宗春によって開山いたしました。西方寺の寺号は貞享2年1685年9月に許可されました。以来、お念仏の道場として、ご門徒の心の拠りどころとして現在に至っております。(リンク先より) << 戻る
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伊賀長徳寺-三重県伊賀市

・伊賀長徳寺 曹洞宗 三重県伊賀市炊村1700草創は不詳ですが、お寺の古い記述によると萬治三年(1660年頃・江戸時代)からの記録があり、 この頃には長徳寺としてお寺が機能していました。 当時の監住で礼牛和尚からの記録によると、濤雲和尚(極楽寺)、良道和尚(普門寺)、 大應大和尚(法善寺)、月波和尚(地蔵寺)、良運和尚(普門寺)がしばらく監住し、 その間に、海天和尚、良珠和尚と當山(当寺)を守り、長徳寺御開山  月堂素白大和尚(本寺 広禅寺第 世住職)を向かい入れ 二代目に良運和尚が引き継いできました。(リンク先より) << 戻る
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法蔵寺-三重県四日市市

・南林山 法蔵寺 臨済宗妙心寺派 三重県四日市市貝塚町361本寺は萬治元年(1658)の創立にして宗貞首座を開基としています。伊勢国桑名長寿院木堂和尚により堂宇再がされ中興とします。(リンク先より) << 戻る
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潮音寺-三重県津市

・潮音寺 真宗高田派 三重県津市中河原554現存する最古の創建記録は明暦2年(1656)。開基は専修寺(現 真宗高田派本山)中興真慧上人の随弟、浄幸坊。本尊は元々専修寺の秘仏と同じ善光寺式阿弥陀三尊で、源三位の後裔乙部兵庫守藤政公の守護仏であった。(リンク先より) << 戻る
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照源寺-三重県桑名市

・照源寺 浄土宗 三重県桑名市大字東方1308寛永元年(1624年)桑名藩主であった松平隠岐守定勝公(徳川家康公の異父弟)の御逝去に際し、二代将軍徳川秀忠公の台命により 御父菩提の為、御子の松平隠岐守定行公が新規に一寺を建立し、当地に埋葬しました。すなわち当山は松平家菩提の為に建立されたお寺です。(リンク先より) << 戻る
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桑名別院本統寺-三重県桑名市

・桑名別院本統寺 真宗大谷派 三重県桑名市北寺町47慶長元(1596)年、本願寺第12代教如【きょうにょ】上人によって、宗祖親鸞聖人の教えを共に聴聞していく、三重の門徒衆の大切な儀式・聞法の中心道場として開創されたのが当別院の始まりです。(リンク先より) << 戻る
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東正寺-三重県南牟婁郡

・東正寺 曹洞宗 三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿686慶長元年(1596)前住の雲深舜白和尚が、鳥止野浦江崎の地に小院を建立されたのが始まりとされています。その後、曹洞宗の寺院として、また東正寺という寺院名として、萬治3年(1660)に、華厳山和尚が同地に伽藍を建立、新宮市の宗応寺6世布國文益大和尚を迎え開山。(リンク先より) << 戻る
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海蔵寺-三重県桑名市

・海蔵寺 曹洞宗 三重県桑名市北寺町10当山は、天正2年(1574)ごろに創建され、ご本尊は「十一面観世音菩薩」で、宗派は曹洞宗(禅宗)に属し、本山は福井の永平寺・横浜の総持寺であります。旧伝によれば、昔は西方村にあって現在地に移りましたが、その時期は明らかではありません。(リンク先より) << 戻る
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慎福寺-三重県鈴鹿市

・慎福寺 真言宗豊山派 三重県鈴鹿市神戸2-19-8寺伝によると、永禄2年(1559年)法印紹盛上人の開基と伝わり、往時は七堂伽藍を備え、神福寺と称していました。のちに神戸城主織田信孝の祈願寺とされ、寺領六百六十石を受領し栄えたものの、江戸時代の大地震により焼失し、その後再建されて明治の廃仏毀釈の際に寺名を慎福寺と改称したと伝わっています。(リンク先より) << 戻る
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立法寺-三重県四日市市

・立法寺 真宗高田派 三重県四日市市楠町南五味塚903番地正式な創建時期は不詳ですが、「おおよそ800年前(平安時代末期~鎌倉時代初期)、元々は真言宗系の道場としてはじまった」と代々申し伝えられています。尚、開基 上人を信光院と申し、その後、永正6(1509)年、當山 第12世 俊良上人の時、高田派法燈 第10世 中興 眞慧上人に帰依し奉り、真宗高田派へ転派させて頂きました。(リンク先より) << 戻る
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彰見寺-三重県津市

・彰見寺 真宗高田派 三重県津市大谷町1当寺開基/教専坊釈恵光(1417〜1505) 教義/阿弥陀仏の浄土へ往生することを究極の目的としながら、本願念仏の教えによって、苦悩の現世を強く明るく生き抜く拠り所とする。(リンク先より) << 戻る
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龍光寺-三重県鈴鹿市

・龍光寺 臨済宗東福寺派 三重県鈴鹿市神戸石橋町2-20-8町時代、応永29年(1433年)11月29日の深夜、伊勢湾の方より奇異なる霊光が飛び來り当山の旧跡地西条の沢山に至って消えること15日間に及んだ。ときの神戸かんべ城主は神戸家二代実重で、伊勢国司北畠満雅が称光天皇に奉上し帝これを占わしめると、東海龍王の瑞光であるから此地へ禅寺を建立して国家安泰を祈るべしとのことであった。天皇は満雅を開基とし、神戸実重を普請奉行として天澤山龍光寺を創建した。(リンク先より) << 戻る
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金光寺-三重県鈴鹿市

・金光寺 曹洞宗 三重県鈴鹿市東庄内町853宝暦二年(1752)に書かれた「勢州鈴鹿郡原之庄階下無量林金光寺興廃旧記」によれば、応治二年(1241)、天台僧円海による開基とされます。貞治元年(1362)には管領斯波氏頼が金光寺で僧侶となり大寺とされました。一四七〇年には、応仁の乱を避け後花園院の皇女も金光寺に入寺したと伝えられます。(リンク先より) << 戻る
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新大佛寺-三重県伊賀市

・新大佛寺 真言宗智山派 三重県伊賀市富永1238新大佛寺は、今から約800年前(1196年)後鳥羽法皇の勅願により、源頼朝公の協力を得て、国家の安泰と国民の幸せを祈る、一大祈願道場として又、東大寺伊賀別所として建立されました。ご本尊様は、快慶作の高さ約5メートル木彫大仏様(重要文化財)で、最初の上人様は俊乗房重源と申し、奈良東大寺を復興された上人様です。このことから、東大寺に敬意をはらって、寺号に「新」を加え、新大佛寺と名づけられました。(リンク先より) << 戻る
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蓮蔵寺-三重県津市

・蓮蔵寺 天台真盛宗 三重県津市戸木町2078この寺は凡そ1040年余り前、応和3年(963)慈恵大師の創建と伝えられています。その後寛和2年(986)恵心僧都によって念仏道場として再建されました。延徳元年((1489)に真盛上人が恵心僧都の跡を継ぎ、法灯をかかげて不断念仏を再興し、円頓の妙戒を授け、「十方有信の四衆雲の如く集ひて財を投じ、堂舎を造立す」と記されています。(リンク先より) << 戻る
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仲福寺-三重県津市

・仲福寺 真言宗醍醐派 三重県津市大里窪田町2302弘仁三年二月上旬に、弘法大師が天照皇大神宮へご参詣の際、当寺の林の中が金色に光っていることに気付きました。そこへ立ち寄ってみると、大木の元に八枚からなる蓮花の上に十一面の尊像が現れ、弘法大師は大光普照観世音として礼拝し、その大木に十一面観音を彫刻し当寺のご本尊として日天八王子を御勧請なされました。(リンク先より)※弘仁三年 812年 << 戻る
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明源寺-三重県いなべ市

・明源寺 浄土真宗本願寺派 三重県いなべ市東禅寺562平城天皇の大同3年(808年)、比叡山・延暦寺を建立され、天台宗の開祖である伝教大師・最澄法師が、仏法を広げられるため、当地に御逗留となり、薬師如来を本尊とし観音菩薩を脇侍として、一寺を建立され、足下山(たしたさん)円頓院(えんどんいん)東禅寺と名付けられました。明源寺の根本資料である『明源寺由緒書』によれば、東禅寺の規模は、七堂伽藍を完備した寺院で有ったとあります。(リンク先より) << 戻る
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聖宝寺-三重県いなべ市

・聖宝寺 臨済宗妙心寺派 三重県いなべ市藤原町坂本981平安初期大同二年に天台宗の開祖・伝教大師最澄大和上によって開かれ、当時は七堂伽藍を有する広大な境内があり、僧兵も在住していたといわれています。当寺の庭園は藤原期の造庭と推測され、回遊式の大きい池は別名浄土池と呼ばれ、浄土の世界を表していると伝えられています。(リンク先より)※大同二年 807年 << 戻る
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常福寺-三重県伊賀市

・常福寺 真言宗豊山派 三重県伊賀市古郡559創建は、養老六年(722年)。徳道上人開基。和州豊山長谷寺(総本山長谷寺)の開基である徳道上人が、長谷寺本尊の十一面観世音菩薩執行成就後に当地に於いて、「南面が晴れて霊鷲山に良く似た名利の地である」として、長谷寺本尊十一面観世音菩薩造立の余材を用いて稽文會・稽主薫の二人の仏師に命じて本尊五大明王(五大尊)を造り、仏閣を修造した後、天平二年(730年)聖武天皇に上奏して勅願寺に定められました。(リンク先より) << 戻る
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長谷寺-三重県津市

・長谷寺 臨済宗相国寺派 三重県津市片田長谷町230当山の開基は徳道上人で、その創設については大宝年間(七〇一~七〇四)と伝わる。大和の長谷寺を模したものとして多気郡多気町にある真言宗山階派の近長谷寺に対し遠長谷寺とも呼ばれております。(リンク先より) << 戻る
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飯福田寺

大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有りし、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。(リンク先より)・飯福田寺
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蓮光院初馬寺-三重県津市

・蓮光院初馬寺 真言宗御室派 三重県津市栄町3丁目210聖徳太子が厄除け・病気平癒のため開創されたお寺と伝えられております。即ち、太子42歳の厄年の時(614年)東の四天王寺建立を発願せられ、この伊勢の地に来られたおり、急に病に罹られ造営も太子の意のままにならず、そこへ加えて都より使いの者が現れ、御母と正妃がご不例である旨を伝える。太子は大層ご心配になり、師であった高麗の僧、慧慈に「如何せばや」と計られたところ、慧慈は徐に口を開き「聖体今年42歳の厄難の悪しき年廻りにあらせられる。伏して乞う、伽藍の艮(うしとら)の方角に馬頭観世音菩薩を彫み、法報二身を併せ安置し除難の法を厳修したまえ」と申され...