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高遊外(こうゆうがい)- 売茶翁(ばいさおう)

江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。本名は柴山元昭、幼名は菊泉。法名は月海で、還俗後は高遊外とも称した。佐賀蓮池支藩の藩医の三男として誕生。11歳で龍津寺に出家し僧名は月海。22歳で修行不足を恥じ江戸、仙台等各地へ出かけた。煎茶は長崎の中国僧から習ったとの説もある。また、隠元禅師が京都宇治に開いた、黄檗山(おうばくさん)萬福寺でも修業、中国伝来の文化に触れ、視野を広げた。晩年、龍津寺を弟弟子に託し再上洛。洛中に「通仙亭」という庵を構え、茶を売りながら禅や人の生き方を説いた。その姿に人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼んだ。通仙亭には文人墨客が集まり「売茶翁に一服接待されなければ一流の文人とは言...
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大岡忠相(おおおかただすけ)- 大岡越前

江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大...
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徳川吉宗(とくがわよしむね)

江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康の曾孫に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。生誕 貞享元年10月21日(1684年11月27日)命日 寛延4年6月20日(1751年7月12日)有徳院殿贈正一位大相国<< 戻る
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石田梅岩(いしだばいがん)

江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。諱は興長。通称、勘平。丹波国生まれ。小栗了雲門下。在野(民間研究者)上がりの学者である石田を無学で文字に疎いと批判した者に対し、「文字がなかった昔に、忠孝はなく、聖人はいなかったとでもいうのか。聖人の学問は行いを本とし、文字は枝葉なることを知るべし」といい、自ら徳に至る道を実行せず、ただ文字の瑣末にのみ拘泥しているのは「文字芸者という者なり」と痛烈に反論した。生誕 貞享2年9月15日(1685年10月12日)命日 延享元年9月24日(1744年10月29日)<< 戻る
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市川團十郎(3代目)(いちかわだんじゅうろう)

三代目 市川 團十郎は享保期の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。 享保6年 (1721) 生まれ。父は初代團十郎の高弟初代三升屋助十郎。生誕 享保6年(1721年)命日 寛保2年2月27日(1742年4月2日)<< 戻る
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紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)

江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。生没年もはっきりしないなど、人物伝には不明な点が多く、半ば伝説上の人物である。架空の人物であるとする説もあるが、実在したとする説が主流である。生誕 寛文9年(1669年)命日 享保19年4月24日(1734年5月26日)帰性融相信士<< 戻る
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井戸正明(いどまさあきら)

江戸時代中期の幕臣、大森代官、笠岡代官。享保の大飢饉の際に石見銀山領を中心とする窮民救済のため数々の施策を講じた。生誕 寛文12年(1672年)命日 享保18年5月26日(1733年7月7日)泰雲院義岳良忠居士<< 戻る
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近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛。平安堂、巣林子、不移山人と号す。家紋は「丸に一文字」。代表作『曽根崎心中』(1703年)『冥途の飛脚』(1711年)『国性爺合戦』(1715年)『心中天網島』(1720年)忌日の11月22日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっている(明治以降は新暦で行われる)。生誕 承応2年〈1653年〉命日 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉阿耨穆矣一具足居士<< 戻る
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隆光(りゅうこう)

江戸時代中期の新義真言宗の僧。出自は大和国の旧家河辺氏。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。生誕 慶安2年2月8日(1649年3月20日)命日 享保9年6月7日(1724年7月26日)<< 戻る
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祐天(ゆうてん)

祐天とは、浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師。字は愚心。号は明蓮社顕誉。 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説がある。祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まった。生誕 寛永14年4月8日(1637年5月31日)命日 享保3年7月15日(1718年8月11日)<< 戻る
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尾形光琳(おがたこうりん)

江戸時代の画家、工芸家。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。生誕 万治元年(1658年)命日 享保元年6月2日(1716年7月20日)法橋緒形青々堂光琳<< 戻る
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渋川春海(しぶかわはるみ/しゅんかい)

江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家。幼名は六蔵、諱は都翁、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。暦道の最高責任者でもあった泰福を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。生誕 寛永16年閏11月3日(1639年12月27日)命日 正徳5年10月6日(1715年11月1日)<< 戻る
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森川許六(もりかわきょりく)

江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。生誕 明暦2年(1656)8月14日命日 正徳5年(1715)8月26日<< 戻る
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柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。生誕 万治元年12月18日(1659年1月10日)命日 正徳4年11月2日(1714年12月8日)永慶寺保山元養<< 戻る
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狩野常信(かのうつねのぶ)

江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。生誕 寛永13年3月13日(1636年4月18日)命日 正徳3年1月27日(1713年2月21日)常心院古川道雲日観大居士<< 戻る
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徳川家宣(とくがわいえのぶ)

江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊。生誕 寛文2年4月25日(1662年6月11日)命日 正徳2年10月14日(1712年11月12日)文昭院殿贈正一位大相国公文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士<< 戻る
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徳川綱吉(とくがわつなよし)

上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代征夷大将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。「生類憐みの令」生誕 正保3年1月8日(1646年2月23日)命日 宝永6年1月10日(1709年2月19日)常憲院殿贈正一位大相国公<< 戻る
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関孝和(せきたかかず/こうわ)

江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。字は子豹、自由亭と号した。算木を使って高次方程式を解く天元術に改良を加えて筆算式の高等代数学である点竄術を発明し、数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残しました。その業績により我が国では「算聖」と呼ばれ、さらに同世代に出たイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツと共に世界三大数学者として尊称されています。生誕 命日 宝永5年10月24日(1708年12月5日)<< 戻る
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了翁道覚(りょうおうどうかく)

江戸時代前期、教育文化、社会福祉、公共事業など各種の社会事業に貢献した黄檗宗の僧。出羽国雄勝郡八幡村生まれ。初め名を祖休といい、後に道覚とあらためた。号も初めは了然といい、後に了翁にあらためた。寛永20年(1643年)、了翁は陸奥国(後の陸中国)平泉の中尊寺(岩手県平泉町)を詣でたが、その際、多くの経典がすでに散逸してしまっていることを知った。特に藤原清衡奉納の宋版大蔵経の多くが失われていることを嘆き、近隣を探し回り、今日国宝の一部として知られる金銀交書(紺紙金銀交書大般若経)6巻を返納した。さらにこれ以後、散逸した経典や群書の蒐集と一切経蔵建立の運動に一生を捧げることを誓う。承応3年(165...
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市川團十郎(初代)(いちかわだんじゅうろう)

初代 市川 團十郎は、元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。生誕 万治3年(1660年)命日 元禄17年2月19日(1704年3月24日)<< 戻る
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吉良義央(きら よしひさ/よしなか)- 吉良上野介義央

江戸時代前期の高家旗本。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介。一般的には吉良上野介と呼ばれる。生誕 寛永18年9月2日(1641年10月5日)命日 元禄15年12月15日(1703年1月31日)霊性寺殿実山相公大居士<< 戻る
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大石内蔵助(おおいしくらのすけ)

江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し(寺坂信行を除く)、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった(赤穂事件)。 良雄は諱で、通称(仮名)は内蔵助。一般にはこのの名で広く知られる。本名は大石良雄(おおいしよしお/よしたか)。生誕 万治2年(1659年)命日 元禄16年2月4日(1703年3月20日)忠誠院刃空浄剣居士<< 戻る
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徳川光圀(とくがわみつくに)

常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。生誕 寛永5年6月10日(1628年7月11日)命日 元禄13年12月6日(1701年1月14日)<< 戻る
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浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)

播磨国赤穂藩3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。官名から浅野内匠頭と呼称されることが多い。江戸城本丸大廊下にての刃傷とそれに続く赤穂事件で広く知られる。生誕 寛文7年8月11日(1667年9月28日)命日 元禄14年3月14日(1701年4月21日)冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士<< 戻る
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契沖(けいちゅう)

江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となるが、高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行う。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となる。『万葉集』の解釈を進...
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河村瑞賢(かわむらずいけん)

江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。生年を元和3年(1617年)とする説もある。江戸幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり、明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模国小田原藩主稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。幕命により瑞賢は、寛文11年(1671...
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松尾芭蕉(まつおばしょう)

江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。伊賀上野(現:三重県上野市赤坂町)の下級武士松尾与左衛門の次男として生を受ける。幼名金作、長じて甚七郎または忠左衛門。兄姉が一人ずつ、妹が三人の六人兄弟。元来、松尾家は伊賀国柘植郡に代々住した平家末流の土豪、柘植七族の支流である。父は伊賀藤堂家の無足人として伊賀上野に来住、手習師匠などを生業としていた。若き日を藤堂良忠に仕える。良忠は北村季吟の教えを受ける俳人であり、そこから俳諧への目を開いていったと思われる。処女発句集『貝おほひ』で...
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菱川師宣(ひしかわもろのぶ)

江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称されるのは、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」というジャンルを確立したため。「見返り美人図」生誕 元和4年〈1618年〉命日 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉勝誉即友居士<< 戻る
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三井高利(みついたかとし)

江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖と言われる。「現金掛け値なし」で呉服の廉価販売を始め、また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆して切り売りをし、庶民の大人気となった。生誕 元和8年(1622年)命日 元禄7年5月6日(1694年5月29日)松樹院長誉宗寿居士<< 戻る
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井原西鶴(いはらさいかく)

江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。 『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。代表作『好色一代男』(1682年)『好色一代女』(1686年)『日本永代蔵』(1688年)『世間胸算用』(1692年)生誕 寛永19年〈1642年〉命日 元禄6年8月10日〈1693年9月9日〉<< 戻る
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土佐光起(とさみつおき)

江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人。子は土佐光成、土佐光親。大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図な...
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熊沢蕃山(くまざわばんざん)

江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継、字は了介、通称は次郎八、後に助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村(現・滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。寛永18年(1641年)全国に先駆けて開校した藩校「花畠教場」を中心に活動した。正保4年(1647年)には側役、知行300石取りとなる。慶安2年(1649年)には光政に随行し江戸に出府する。慶安3年(1650年)鉄砲組番頭、知行3,000石の上士に累進。慶安4年(1651年)庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の寛文10年(16...