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仏教を本気で学ぶ

選択本願念仏集

建久9(1198)年、法然上人は一部十六章からなる「選択本願念仏集」を撰述(せんじゅつ)しました。建久8(1197)年に九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」と懇請されたのに応じられ、門弟の感西や証空や遵西の三人に執筆の助手役をつとめさせ、撰述にとりかりました。建久9(1198)年の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。【第一】聖道浄土二門篇【第二】雑行を捨てて正行に帰する篇【第三】念仏往生本願篇【第四】三輩念仏往生篇【第五】念仏利益篇【第六】末法万年に特り念仏を留むる篇【第七】光明ただ念仏の行者を摂する篇【第八】三心篇【第九】四修法...
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瑠璃寺-長野県下伊那郡

・瑠璃寺 天台宗 長野県下伊那郡高森町大字大島山812比叡山竹林院の観誉僧都(かんよそうず)がこの地に入り、 仁王山の間の洞(あいのほら)の樹間に出現した薬師如来にいたく感激し、創建した古刹です。 建久3(1197)年に源頼朝の祈願所となり、寺領750石を永代寄進。その折、三本の桜も共託された。伊那谷に拝む 平安仏の寺、源頼朝公祈願寺、上杉謙信公戦勝祈願の寺、武田信玄公仏道修行の寺、徳川家御加護の寺として知られている。聖衆来迎の図、十六善神、愛染明王、武田信玄寄進の鶏香炉、雨乞いの青獅子などの寺宝がある。(リンク先より) << 戻る
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鑁阿寺-栃木県足利市

・鑁阿寺 真言宗大日派 栃木県足利市家富町2220鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。(リンク先より) << 戻る
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聖光房弁長弟子入り

建久8(1197)年、後に浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房弁長(べんちょう) 、三十六歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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新大佛寺-三重県伊賀市

・新大佛寺 真言宗智山派 三重県伊賀市富永1238新大佛寺は、今から約800年前(1196年)後鳥羽法皇の勅願により、源頼朝公の協力を得て、国家の安泰と国民の幸せを祈る、一大祈願道場として又、東大寺伊賀別所として建立されました。ご本尊様は、快慶作の高さ約5メートル木彫大仏様(重要文化財)で、最初の上人様は俊乗房重源と申し、奈良東大寺を復興された上人様です。このことから、東大寺に敬意をはらって、寺号に「新」を加え、新大佛寺と名づけられました。(リンク先より) << 戻る
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聖福寺-福岡県福岡市博多区

・聖福寺 臨済宗妙心寺派 福岡県福岡市博多区御供所6-1聖福寺しょうふくじは建久けんきゅう6年(1195年)に鎌倉幕府初代将軍源頼朝みなもとよりとも公よりこの地を賜り、栄西禅師ようさいぜんじを開山かいさんとして創建された日本最初の禅寺ぜんてらです。山号を安国山あんこくざん、寺号を聖福至仁禅寺しょうふくしぜんじといいます。元久元年(1204年)後鳥羽天皇ごとばてんのう(後上皇じょうこう)より、日本で最初の禅寺である「扶桑最初禅窟ふそうさいしょぜんくつ」の勅額を賜りました。(リンク先より) << 戻る
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日本で初めてとなる禅宗道場・聖福寺開山

建久6(1195)年、日本で初めてとなる禅宗道場として博多の聖福寺(しょうふくじ)が栄西禅師によって開かれる。<< 戻る
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勢観房源智弟子入り

建久6(1195)年、後に法然上人に常随給仕する勢観房源智 (げんち) 、十三歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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満昌寺-神奈川県横須賀市

・義明山満昌寺 臨済宗建長寺派 神奈川県横須賀市大矢部1-5-10当山は建久5年(1194)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立して820年余の星霜をへた名刹である。この年は義明が逝って14年もたったが、頼朝は伊豆の挙兵のおりに老大をなげうち、幕府開闢の礎になった無二の忠臣義明の霊に一字を献じたかったのであろう。140年ののち、仏乗禅師が中興開山となり、臨済宗建長寺派の寺となり、禅寺として今に至っている。(リンク先より) << 戻る
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禅宗停止の宣旨

建久5(1194)年、延暦寺、興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下されるなど、栄西禅師の都での禅の布教は困難を極めた。<< 戻る
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誕生寺-岡山県久米郡

・誕生寺 浄土宗 岡山県久米郡久米南町里方808熊谷法力房蓮生(熊谷直実)が建久4年(1193年)に師である法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたのがはじまりです。(リンク先より) << 戻る
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寿福寺-福岡県福岡市西区

・寿福寺 臨済宗大徳寺派 福岡県福岡市西区今津303寿福寺の歴史は、正確なものは分かっていませんが、西暦1200年以前に創建されたものと思われます。初めは、真言宗の寺院として創建され、1192年~1196年頃、栄西禅師によって禅宗へと改宗され、現在にいたっております。(リンク先より) << 戻る
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宝善院-神奈川県平塚市

・宝善院 東寺真言宗 神奈川県平塚市平塚1-23-16建久三年、鎌倉八幡宮寺(今の鎌倉八幡宮:明治維新までは関東地方屈指の真言系巨大寺院であった)に下向した京都・東寺の学問僧によって開山されました。源実朝公の妻の念持仏と伝えられる、京都より請來の不動明王です。(リンク先より)※建久三年 1192年 << 戻る
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源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く

1192年、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く。頼朝は、おもに関東の武士を家来とし、武士の政府をつくっていった。頼朝の家来になった武士を御家人という。→御恩と奉公。封建制度。<< 戻る
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正法寺-京都府八幡市

・徳迎山 正法寺 浄土宗 京都府八幡市八幡清水井73正法寺は1191年(鎌倉・建久2年)に、鎌倉幕府御家人・高田蔵人忠国(たかだくろうどただくに)により、天台宗の寺として開かれました(室町時代に浄土宗に改宗)。忠国の次男・高田願阿円誓(がんあえんせい)が第1世(初代住職)となり、姓を「清水」の地名にちなんで「高田」から「志水」と改め、本寺は志水家の菩提寺となりました。(リンク先より) << 戻る
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栄西禅師再び南宋に留学

建久2(1191)年に栄西禅師が宋から帰国し、臨済宗黄龍派の禅を伝える。 << 戻る
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西行(さいぎょう)

平安後期の歌人。姓は佐藤、名は義清、別号に大宝房、法名を円位。武家に生まれ鳥羽上皇に北面武士として仕えるが、のち出家する。平清盛・時忠、崇徳院・徳大寺実能らと交わる。仏道修行、和歌に励み、和歌は約2300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。生誕 元永元年(1118年)命日 文治6年2月16日(1190年3月31日)<< 戻...
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勝善寺-千葉県南房総市

・黒石山龍燈院 勝善寺 真宗大谷派 千葉県南房総市二部1344-2建久元(1190)年 天台宗の僧永範が検儀谷原黒石山に一宇を建立し、黒石山龍燈院勝善寺と号す。元仁元(1224)年 永範は、親鸞聖人に帰依し浄土真宗に改宗し釋明空と名のる。(リンク先より) << 戻る
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萬福寺-東京都大田区

・萬福寺の公式サイト 曹洞宗 東京都大田区南馬込1-49-1現在、曹洞宗寺院である萬福寺は慈眼山無量院と号します。建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城と共に馬込へ移転したと伝えられます。天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いています。本尊は阿弥陀三尊を祀っております。(リンク先より) << 戻る
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興禅寺-兵庫県尼崎市

・興禅寺 臨済宗妙心寺派 兵庫県尼崎市浜田町1-7興禅寺は建久元年(1190年)に臨済宗の開祖・栄西千光国師が宋から帰国後、西国各地を伝道した折に開山され、令和元年で創建829年に至る禅宗の古刹です。兵庫県尼崎市唯一の禅・臨済宗妙心寺派寺院です。安置されてる本尊・釈迦牟尼佛は、室町時代初期の作であり、戦国時代の再三の兵火から護られてきました。(リンク先より) << 戻る
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法然上人と九条兼実

文治5(1189)年8月、九条兼実と法文語および往生業を語る。<< 戻る
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武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)

武蔵坊弁慶は、平安時代末期の僧衆。源義経の郎党。 『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。弁慶の立往生義経が衣川の館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。ここから命を投げ出して主君を護っていた忠義の臣を表す。弁慶の泣き所弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所のこと。最もよく知られているのが脛(膝頭の下から足首の上まで)で、皮膚のすぐ下、骨(脛骨)のすぐ上を神経が通っ...
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源義経(みなもとのよしつね)

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った...
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宗恵寺-宮城県登米市

・宗恵寺 曹洞宗 宮城県登米市南方町尼池80文治五年(1189年)源頼朝は源義経をかくまったとして藤原泰衡を攻め(奥州合戦)、平泉・藤原氏を滅ぼしました。当地南方町も戦火に見舞われ、住民が尼池118番地に小さな僧房を建てて、戦で死んだ者の供養をしたと伝えられています。(リンク先より) << 戻る
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遍照寺-山形県長井市

・遍照寺 真言宗豊山派 山形県長井市横町14-8金剛山遍照寺は、8世紀中頃に行基菩薩が開いたと伝えられています。文治の乱(1189年)の時、中尊寺の祥乗が戦乱をさけて遍照寺に入ったといい、「奥の高野」とも呼ばれた古刹です。(リンク先より) << 戻る
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源頼朝が奥州で義経を討つ

1189年、源頼朝が奥州で義経を討つ。<< 戻る
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栄西禅師再び南宋に留学

文治3(1187)年、再び南宋に入り、更にインドへの巡蹟を目指すも許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を修行し、その法の印可を受け継いで建久2(1191)年に帰国しました。<< 戻る
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龍寶寺-宮城県仙台市青葉区

・龍寶寺 真言宗御室派 宮城県仙台市青葉区八幡4-8-32文治年間(1186年)伊達家の初代朝宗公(ともむねこう)が、伊達家の祈願寺(きがんじ)として開かれたお寺です。龍寶寺は、常陸の国より 福島県 梁川、山形県 米沢、宮城県 岩出山と、伊達家と共に移動し、慶長3年(1598年)頃、初代仙台藩主伊達政宗公(まさむねこう)の仙台築城に伴って現在の地に移されました。 藩政時代は城下最大の門前町を与えられ、龍寶寺に属していた寺院は約70ヶ寺という大寺院でありました。(リンク先より) << 戻る
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平家の落武者や、没落した貴族が高野山に

文治二年(1186年)、この頃から平家の落武者や、没落した貴族が高野山に逃れてくる。また、この頃から高野聖らの唱導によって高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。<< 戻る
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大原談義

文治2(1186)年の秋、洛北大原の魚山大原寺勝林院で天台座主の職にあった顕真法印の発起により、南都、北嶺の名僧学匠三百余人を相手として、法然上人は念仏の教えについて論議された大原談義(大原問答)が行われました。論議は一昼夜に及び、念仏が他の行よりすぐれていることを法然上人が述べられたところ、顕真や論議参加した者は法然上人の教えを信じ、阿弥陀仏の周りを三日三夜念仏行道したと伝えられています。<< 戻る
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龍華寺-神奈川県横浜市金沢区

・知足山 龍華寺 真言宗御室派 神奈川県横浜市金沢区洲崎町9-31鎌倉の外港として栄えた武州金沢に整然とたたずむ古刹「龍華寺(りゅうげじ)」。寺のおこりは、文治年中(1185~1190)に源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺で、明応8年(1499)に融弁上人によって現在の地にあった光徳寺と併合され、移築されました。(リンク先より) << 戻る
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一心寺-大阪府大阪市天王寺区

・一心寺 トップページ 浄土宗 大阪府大阪市天王寺区逢坂2-8-69山号:坂松山  院号:高岳院開基:文治元年(1185年)法然上人(リンク先より) << 戻る