便り 法城寺-鹿児島県薩摩郡 ・法城寺 浄土真宗本願寺派 鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田536明治18年頃、開基住職、副 慈雲によって鶴田真宗本願寺派説教所として設立された。同22年に大火にあい、建物一切を焼失した。その後、本堂を門徒が建立し、庫裏の一部は民家を持って来たと言われる。(リンク先より)※明治18年 1885年 << 戻る 1885.01.01 便り年表
便り 東行庵-山口県下関市 ・東行庵 曹洞宗 山口県下関市吉田町1184清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)と称し、維新の革命児・高杉晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建されました。ご本尊は「白衣観音菩薩」です。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうの。晋作の死後、明治14年(1881)に曹洞宗総本山永平寺の貫主である久我環渓禅師から得度を受け、「梅処」(ばいしょ)と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられており(リンク先より) << 戻る 1884.01.01 便り年表
便り 函館寺-北海道函館市 ・函館寺 真言宗智山派 北海道函館市松風町15-17当山は、明治16年(1883)真言宗智山派大本山成田山新勝寺のご本尊大聖不動明王のご分霊を勧請し、明治29年(1896)開創され、成田山凾館寺(通称成田山凾館別院)と号します。昭和9年(1934)未曾有の業火凾館大火にて本堂・客殿・庫裡全てが烏有に帰し、昭和10年(1935)仮堂を建立。(リンク先より) << 戻る 1883.01.01 便り年表
便り 高福寺-青森県弘前市 ・高福寺 曹洞宗 青森県弘前市撫牛子4-5-4前身は橋本庵で明治15年開基白眼光沙弥(白崎熊太郎翁)の発願によって建てられ、師は長年に亘って独り托鉢修行をせられ、施主各々菩提の為に千足の草履を踏み破ってようやくに伽藍が建立されたという尊い記録が御座います。(リンク先より)※明治15年 1882年 << 戻る 1882.01.01 便り年表
便り 甘露寺-宮城御県栗原市 ・甘露寺 浄土真宗本願寺派 宮城県栗原市若柳字川北塚原427-6明治十五年頃、旧 栗原郡北部の門信徒は、称念寺歴代の住職及び幾多の人々教化伝道によってご縁をむすばれ、旧 若柳町新町平塚清兵衛宅に「道場」が開設されていた。明治三十五年に本願寺布教使井上安祥師を中心に門信徒と共に同町元町九番地の土地を買い求めて本願寺説教所を設立し、柴田宣照、龍原孝順、楯玄一の各師により御法義相続が勤められた。柴田宣照師は当地に寺院建立を願い、北海道に開設した寺院を長子宣妙に譲り、来町して各方面に働きかけるも、宗教政策により許可されず苦慮していた。そこで弟の称念寺住職柴田宣海師と図り、同寺内「甘露寺」移転を画策した... 1882.01.01 便り年表
仏教を本気で学ぶ 仏旗(ぶっき) 「青、黄、赤、自、橙」の5色の旗は仏教のシンボルで仏旗といいます。イギリス人の仏教徒オルコット大尉が、1882年(明治15年)に考案したものといわれています。1950年(昭和25年)にスリランカのコロンボで、第1回世界仏教徒会議が開かれた際、その中で仏旗制定の議案が提出され満場一致の賛同を得て、法輪と共に正式に万国共通の仏教徒のシンボルとして「仏教徒の旗」略して「仏旗」と決められました。何故「青、黄、赤、白、橙」の5色なのかは諸説がありますが、ブッダが12月8日にプツダガヤで悟りを開かれた時にブッダの身体から5色の光明が輝きあたりを照らしたという故事を元にして採用されたものだと伝えられています... 1882.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
便り 新善光寺-北海道札幌市中央区 ・新善光寺 浄土宗 北海道札幌市中央区南六条西1-2明治15年、大谷玄超上人が大本山増上寺特命開教師として北海道一円を巡教した際、札幌に一寺創立を計画しました。明治17年、薄野の一角に新善光寺公称の許可を得て草庵を建立し開山に至りました。(リンク先より) << 戻る 1882.01.01 便り年表
便り 身延別院-東京都中央区 ・身延別院 日蓮宗 東京都中央区日本橋小伝馬町3-2明治14年5月5日、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪七円五十銭で購って堂宇を建立する決議がなされ、この人々が東奔西走して大いに浄財を募り、翌明治15年9月祖師堂が建立せられ、翌16年10月盛大な開堂式が行われた。(リンク先より) << 戻る 1881.05.05 便り年表
便り 常宿寺-愛知県一宮市 ・待鳳山 常宿寺 曹洞宗 愛知県一宮市住吉1-7-12常宿寺開創木村観洲尼は、中嶋郡本神戸村字宮山田中新兵衛氏の長女として、嘉永6年(1853年)7月6日誕生。明治3年(1870年)中嶋郡宮地の(当時は曹洞宗)報恩寺四世木村恵光尼の養女となり、同13年に相続、五世となられましたが、明治34年頃報恩寺を退いて、当地通称南木(なぎ)に移られました。(リンク先より)※明治13年(1880年) << 戻る 1880.01.01 便り年表
便り 正行寺-北海道厚岸郡 ・正行寺 真宗大谷派 北海道厚岸郡厚岸町大字梅香町1厚岸は古くから栄えた要港であり、地元住民の心の拠り所として明治十二年説教場設立を開拓使厚岸分署に出願、同年許可を得た。正行寺の創立である。直ちに新潟県頚城郡斐太村(現新井市藤塚)出身で当時、札幌別院在勤中の朝日恵明を根室方面開教出張を命じた。恵明は明治十二年十二月二十日に着任し、湾月町に一民家を借り厚岸説教場を開設したのが正行寺の始まりである。(リンク先より)※明治十二年 << 戻る 1879.12.20 便り年表
便り 大観音寺-東京都中央区 ・大観音寺 聖観音宗 東京都中央区日本橋人形町1-18-9鎌倉の新清水寺(廃寺)で1258年(正嘉2年)に起きた火災で観世音菩薩像が崩落し、首だけになった鉄造菩薩頭を東京に移すことになり、1878年(明治13年)に開山された。読みは「だいかんのんじ」ではなく「おおかんのんじ」です。 << 戻る 1878.01.01 便り年表
便り 攝護寺-宮崎県都城市 ・攝護寺 浄土真宗本願寺派 宮崎県都城市牟田町2-161876年(明治 9年)都城説教所の設立願書提出1878年(明治11年)都城説教所の建築届提出1882年(明治15年)小鷺巣に説教所が設立/寺号公称を出願1883年(明治16年)浄土真宗本願寺派・天竜山攝護寺の寺号公称認可/佐々木雲嶺(のち鴻基)の開基住職就任1884年(明治17年)現在地に移転完了(リンク先より) << 戻る 1876.09.28 便り年表
仏教を本気で学ぶ 黄檗宗の成立 1876年(明治9年)、臨済宗黄檗派と称していたのを臨済宗から一宗として独立し、黄檗宗(おうばくしゅう)と公称するようになりました。日本の臨済宗の中にありながら、中国式で法要等を行うという点で異なったため、独立して一宗派を成すにいたりました。黄檗宗の起源とする臨済宗は、禅宗五家の内の一派で達磨大師から11代目の臨済義玄(りんざいぎげん)禅師を宗祖と仰ぐ宗派で、中国で起こり日本に伝来してきたものです。<< 戻る 1876.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
便り 中央寺-北海道札幌市中央区 ・中央寺 曹洞宗 北海道札幌市中央区南6条西2明治七年八月西有穆山師曹洞宗管長代理として來道せられ、本道各地を巡回しその宗教事務を執る事務所として、開拓使に出願して、南二條西九丁目に於て、千六百貮拾坪の地所を拂下げを受け、 教部省に出願して許可を得て小教院を設立したり(リンク先より)※明治七年 1874年 << 戻る 1874.08.01 便り年表
仏教を本気で学ぶ 大教院開院 1873(明治六)年1月、大教院開院。明治維新当時、新政府は天皇を中心とした神道思想(大教(だいきょう))によって国をまとめあげようと考えました。これを人々に広めるために教導職(きょうどうしょく)が設けられ、全ての神官・僧侶等が兼任させられました。神仏合同による布教が求められ、以後、教導職でない人は、一切の宗教的布教活動は出来ないことになったのです。そして、教導職をまとめたり、大教を広めるための指導機関として、東京に設けられたのが「大教院(だいきょういん)」です。更に、その下部機関として各府県に設けられたのが「中教院(ちゅうきょういん)」や「小教院(しょうきょういん)」です。<< 戻る 1873.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
年表 太陰暦を廃止、太陽暦を用いる 1872年、太陰暦を廃止して、太陽暦を用いる。 明治政府は1872年11月9日に太陰暦を廃止し、太陽歴を採用することを公布しました。その時に定められたのは以下の内容です。・1年を365日とし、それを12月に分けて4年ごとにうるう年をおくこと・1日を24時間とすること・旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とすること出典:国立公文書館 公文書にみる日本の歩み<< 戻る 1872.11.09 年表
便り 円明院-福島県南相馬市 ・円明院 天台宗 福島県南相馬市原町区小浜字丸山18円明院(圓明院)は、明治5年(1872)太政官布告で修験宗が廃止されるまでは、羽黒山(山形県)を本山とする羽黒派修験に属し、旧中村藩領本司華輪山日光院末でした。 廃止後、圓明院は改宗して比叡山延暦寺の天台宗派となり現在に至っています。(リンク先より) << 戻る 1872.01.01 便り年表
便り 長久寺-山口県岩国市 ・長久寺 臨済宗天龍寺派 山口県岩国市美和町生見817明治五年に長徳寺と盛久寺とが合併して改められたものです。長徳寺は、ご本尊の地蔵菩薩は行基の作とされ、嘉元元年に郷士長野修理之助が建立し、善庵慶淑禅師を開山として創建と伝えられています。(リンク先より)※明治五年 1872年 << 戻る 1872.01.01 便り年表
年表 四民平等 1869年、四民平等とし、新たに華族・士族・平民の制を設ける。僧侶は江戸時代までも様々な身分・家柄から出てきていたため、僧侶としてまとめてどこかの階級にあてられたわけではなく、結局、江戸時代からの身分・家柄を引き継いだ四民に分かれた。<< 戻る 1869.01.01 年表
仏教を本気で学ぶ 神仏分離令、廃仏毀釈(しんぶつぶんりれい、はいぶつきしゃく) 1868(明治元)年3月、祭政一致の制を復活。政府は神仏分離令出す。廃仏毀釈によって、寺院仏像などの破却・焼打が各地で起こる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はゆきすぎた仏教廃止運動でした。明治維新の復古思想から神道を国教とする考えがあり、神仏分離令がだされ、神社から仏教的なものがのぞかれました。神官を先頭とする群衆が寺をおそって仏像や仏具を焼いてしまいました。奈良の興福寺の五重塔は、わずか25円(一説には250円)で売りにだされたといいます。<< 戻る 1868.03.01 仏教を本気で学ぶ年表