大塩平八郎(おおしお へいはちろう)

投稿日:1837年3月27日 更新日:

 
江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。 通称は平八郎、諱は正高、のち後素。字は子起。号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は今川氏の末流で、代々大坂東町奉行組与力を務めており、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満に生まれた。大塩平八郎の乱は江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。

1836年(天保7)は大飢饉(ききん)であったため、凶作・飢饉により米価が高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出していた。もと大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を見て、養子格之助(かくのすけ)を通じ、救済策を上申するも拒否されていた。

大坂町奉行諸役人と特権豪商に対し、隠米している米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意する。あらかじめ自分の蔵書を売却して金にかえ、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作する。

1837年2月19日、大塩平八郎は「救民」の旗印を掲げて、私塾「洗心洞」(せんしんどう)に集う門弟二十数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場(せんば)へと繰り出した。一党は300人ほどになっていたが四散する。兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼いた。

大塩父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃。幕政担当者はこれを機に天保の改革に取り組み、一般民衆のなかには「大塩残党」を名のり各地で騒動が起こった。

生誕 寛政5年1月22日(1793年3月4日)

命日 天保8年3月27日(1837年5月1日)

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