「 法話(mp3)便り 」 一覧

第3話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた) 佐野明弘(石川県 光闡坊)

阿弥陀如来から我が名を称えよ、と呼びかけられているところに、我々はすでに阿弥陀如来によって受けとめられているのです。このことを手偏に耳三つを書くおさめるという字と取ると言う字を書いて摂取といいあらわし ...

自分自身の行いと心を見つめなおし

さきごろ、大学入試で携帯電話を使用してのカンニング事件が起き、大騒ぎになりました。犯人とされた受験生は「授業料の安い京都大学に入って、母親を安心させたかった。」と供述していました。(リンク先より) ・ ...

第2話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた) 佐野明弘(石川県 光闡坊)

http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/radio/detail15_02.html

静かな心にて南無釈迦牟尼佛

日本曹洞宗の開祖は道元禅師様です。道元禅師様は、幼くして父母を亡くし、世の無常を感じ、十三歳の時出家されました。 道を求める心が、やがて禅師様を中国大陸に渡らせ、悟りを開かれる導線となったのです。(リ ...

第1話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた) 佐野明弘(石川県 光闡坊)

一日でも人間として生きたといえる日があるでしょうか。いのちが人間といういのちの相(すがた)をとって生きているそれが私だと。人間というのは私のことだと、受けとったことがないのではないでしょうか。(リンク ...

仏様・ご先祖様と同じ気持ちになれるよう

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。」 これは、仏教を代表するお経の『摩訶般若波羅蜜多心経』・『般若心経』の終わりのダラニ「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯 ...

第6話 今、いのちがあなたを生きている 平野喜之(石川県 浄専寺)

私はこの呼びかけによって、報恩講のとき頂いたお漬物やお茶のおいしかったこと、自らいのちを断った友人との思い出、病気をした時に感じたことなど、全てが「いのちの真実」を教えてくれることとしてよみがえってき ...

きちんと結ばれているからこそ安心していられる

最近、孤独死の増加、大切なはずの我が子を虐待する親、更に所在不明の高齢者が存在していたり、自分の親と何年も会っていないと平然と答える人がいたり、最悪は親の遺骸を放置したり隠していた人がいるという実態が ...

【第1118話】「駅伝の襷」

第95回箱根駅伝は1月2日午前8時にスタート。わずか30秒後300mも走らないうちに、大東文化大学の新井選手が、不運な接触で転倒。(リンク先より) ・【第1118話】「駅伝の襷」

第5話 今、いのちがあなたを生きている 平野喜之(石川県 浄専寺)

今から3年前、私は浄専寺でお世話になった祖母がなくなった日に肺炎がひどくなり、緊急入院しました。私はお世話になった祖母のお葬式に出られないということや、その準備のお手伝いが出来ないということが気に懸か ...

愛語能く廻天の力あることを学すべきなり

「おかげさまで」「すみません」「ありがとうございます」など、殺伐とした世相であるほど、心を落ち着けて、言葉を考え直してみる必要があり、使い方によってはプラスにもマイナスにもなります。(リンク先より) ...

隋処に主となれ

今日は皆様に、私が日頃大事に思う言葉をご紹介したいと思います。 それは「隋処に主となれ」という言葉です。 隋(ずい)とは従う、まかせるという事。処(しょ)とはところ、場所の事です。隋処とは、いたる所、 ...

第4話 今、いのちがあなたを生きている 平野喜之(石川県 浄専寺)

今から14年前、たいへん親しくしていた友人が自らいのちを絶ちました。その結末を受け入れることはたいへんつらかったのですが、私にはそこに到るまでの様々な出来事とその友人の表情が今でもときどき浮かんできて ...

全てのものの命とつながって成り立っています

最近のニュースの中で自殺や殺人といった報道を聞かない日はありません。特に親が子を殺し子が親を殺すといった血縁の中での殺人が増えた事には驚くばかりです。(リンク先より) ・全てのものの命とつながって成り ...

第3話 今、いのちがあなたを生きている 平野喜之(石川県 浄専寺)

先日、浄専寺で報恩講を勤めさせていただきました。報恩講の最中は非常に忙しいのですが、その合間に出される食事、特にお漬物とお茶のおいしいかったこと。お漬物を食べながら、ふとある問いが心に浮かびました。( ...

「かぐらさんぼうず」の供養祭

私のお寺は、日本海沿岸の小平町の鬼鹿という集落にあります。昭和の三十年頃までニシン漁で栄えていましたが、今は、ニシン番屋のみが当時の栄華の名残を留めるだけです。(リンク先より) ・「かぐらさんぼうず」 ...

第2話 今、いのちがあなたを生きている 平野喜之(石川県 浄専寺)

私には「いのちの私」という表現を是とすれば「私のいのち」という表現が非となり、「私のいのち」という表現を是とすれば「いのちの私」という表現が非となる、つまりどちらかが間違っていてどちらかが正しいように ...

感謝の心をもつ

私は、昨年8月上旬、まさにお寺にとってはお盆が近い多忙な時期でしたが、静岡県・朝霧高原で開催されたボーイスカウト日本ジャンボリー大会のお手伝いをして参りました。(リンク先より) ・感謝の心をもつ

第1話 今、いのちがあなたを生きている 平野喜之(石川県 浄専寺)

先日、あるお寺の前を通りましたら、「どう活かす あなたのいのち」…この「いかす」は生活の「活」のほうですが…という掲示板の言葉が目に入りました。私にはこちらの方が、よく分かるテーマのような気がしました ...

普段気付かない何かに気付く

以前、あるお檀家のおばあちゃんとお話をする機会がありました。  「副住職さん、私は主人が亡くなってから長いことたつけど、毎日主人と私なりに会話しているんですよ」と言ってきたのです。  私は「どういう事 ...

第6話 涅槃するいのち 内藤円亮(長崎県 光西寺)

私は、2006年の夏、京都において、三重県桑名の池田勇諦先生とご一緒に勉強させていただくご縁をいただきました。私にとりまして初めての経験であ り、それこそ「わたしのいのち」となって、これからの私の学び ...

今ここに居られるが如くにお世話をしてあげたらいいよ

中陰のお参りに伺った時、祭壇の横で呆然としていました。 「定年し、これから旅行に行こうと言っていたのに、悔しくて悔しくてどうにもならない」との事でした。毎週お参りに行くと、その都度、寂しくて、悔しくて ...

第5話 いのちの呼びかけ 内藤円亮(長崎県 光西寺)

「いのち」という言葉は、実に様々な意味で用いられています。これまで多くの方々が「いのち」という言葉を用いながら、宗祖親鸞聖人の教え、お念仏の教えを語られてきたと思います。(リンク先より) ・第5話 い ...

あるがままに受け入れ

あと一年の命と告知された男性が入院をしていました。彼は医師の告知に愕然とし、「一体自分の人生は何だったのか」と嘆き、医師や看護師のみならず周囲の患者やあらゆる人に当たり散らし、恨み、病院で持て余され、 ...

第4話 いのちを拝む 内藤円亮(長崎県 光西寺)

数年前、子どもたちの大会でそのご住職がお話をされたのですが、まず驚いたのは60人ぐらいの子どもたちを相手に1時間近くお話されたということです。私など、毎月一回の子ども会で数人の子どもの前に立ち、お話を ...

心がまっすぐになれば行いもまっすぐになる

私の今年の目標は「忙しくしない」です。 「忙しくしない」というのは、少し仕事を減らして遊びたいとか、自分の時間がもっとほしいとかそういうことではないんです。(リンク先より) ・心がまっすぐになれば行い ...

第3話 いのちをいただきます 内藤円亮(長崎県 光西寺)

ある書物を通して、「いただきます論争」なるものが雑誌や新聞で話題となっていたことを知らされました。ことの発端は2005年の秋頃に、あるラジオ番組で「給食費を払っているのだから、給食の時間にうちの子ども ...

自分の力ではどうにもならないもの

福井県の永平寺をお開きになりました道元禅師さまがお書きになった「正法眼蔵」という書物のなかにこのようなお言葉がでてまいります。 「生を明きらめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり」(リンク先より) ...

第2話 見えるいのち 見えないいのち 内藤円亮(長崎県 光西寺)

「生死するいのち」、「しょうじ」とは「生き死に」という字を書きますが、「生死するいのち」とは、わたしたちが疑いようもなく今まさに生きているということです。それを「見えるいのち」と言ってみたいと思います ...

共に生きる喜びを分かち合えるような世界

さて、今回はウサギ歳。昔、道内にはたくさんの野うさぎがいましたが、最近はめっきり見かけなくなりました。ウサギが減った理由は、棲家となる野原の減少であるとか、北キツネの増加、あるいは外来種のアライグマの ...

第1話 いのちとは何か 内藤円亮(長崎県 光西寺)

折に触れて「いのち」という言葉を耳にし、また、口にもしています。特に、私自身、子どもたちと共にお念仏することを大切な課題として、お寺の子ども会などで「いのちの尊さ」を語りかけているつもりでいました。( ...

第6話 「苦」のみなもと 藤原正寿(石川県 浄秀寺)

近代における親鸞教学の先駆けとなった人物でもある清沢先生が、次のような言葉を記しておられます。 依頼ハ苦痛ノ源ナリ 財貨を依頼めば財貨の為に苦めらる 人物を依頼めば人物の為に苦めらる 我身を依頼めば我 ...



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