心を整えるのは難しいこと

仏教を学ぶ

『法句経』ダンマパダ – ブッダ 真理の言葉

かの尊師・真人・正しく覚った人に敬礼したてまつる。【 第1章 ひと組みずつ 】1 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。2 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。3 「彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は、我から強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。4 「彼は、我を罵った。彼は、我を害した...
文献

『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

しらずんばあるべからず。知らずんばあるべからず。おもうべし想うべしふさいよくしょうたいをやしない、莆菜能く聖胎を養い、よくどうがをしょうずることを。能く道芽を長ずることを。いやしとなすべからず、賤しと為すべからず、かろしとなすべからず。軽ろしと為すべからず。にんでんのどうし、ふさいの人天の導師、莆菜のけやくをなすべきものなり。また化益を為すべき者なり。又たしゅそうのとくしつを衆僧の得失をみるべからず、見るべからず、しゅそうのろうしょうを衆僧の老少をかえりみるべからず。顧みるべからず。じなおじのらくしょをしらず、自猶お自の落処を知らず、たいかでかたの佗争でか佗のらくしょをしることをえんや。落処を...
文献

『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

まことにそれとうしき、誠に夫れ当職、せんもんげんしょう、先聞現証、めにありみみにあり。眼に在り耳に在り。もじありどうりあり。文字有り道理有り。しょうてきというべきか。たとい正的と謂うべきか。縦いしゅくはんじゅうのなをかたじけのうせば粥飯頭の名を忝うせば、しんじゅつもまたこれにどうずべし、心術も亦之に同ずべし、『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、「にじのしゅくはん、りすること「二時の粥飯、理することまさにせいほうなるべし。合に精豊なるべし。しじのくすべからくけっしょう四事の供すべからく闕少せしむることなかるべし。せしむること無かるべし。せそん20ねんのいおん、世尊二十年の遺恩、じそん...
文献

『典座教訓』2、心が整えば味も整う

ゆえにせぞくのじきづしおよび所以に世俗の食厨子及びせんぷとうにおなじからざるものか。饌夫等に同じからざる者か。さんぞうざいそうのとき、かじつ山僧在宋の時、暇日ぜんしごんきゅうとうにしもんするに、前資勤旧等に咨問するに、かれらいささかけんもんをこして、彼等いささか見聞を挙して、もってさんぞうがためにとく。この以て山僧が為めに説く。このせつじは、こらいうどうのぶっそ、説似は、古来有道の仏祖、のこすところのこつずいなり。おおよそ遺す所の骨隨なり。大抵すべからく『ぜんねんしんぎ』をすべからく『禅苑清規』をじゅくけんすべし。熟見すべし。しかしてのちすべからく然して後すべからくきんきゅうしさいのせつをきく...
文献

『正法眼蔵随聞記』30、学道の人、衣粮を煩わす事なかれ

示して云く、学道の人、衣粮を煩わす事なかれ。ただ仏制を守って、心を世事に出す事なかれ。仏言く、「衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり。」と。いづれの世にかこの二事尽くる事有らん。無常迅速なるを忘れて徒らに世事に煩ふ事なかれ。露命のしばらく存ぜる間、ただ仏道を思うて余事を事とする事なかれ。ある人問うて云く、「名利の二道は捨離し難しと云えども、行道の大なる礙なれば捨てずんばあるべからず。故に是れを捨つ。衣粮の二事は小縁なりと云えども、行者の大事なり。糞掃衣、常乞食、是れは上根の所行、また是れ西天の風流なり。神丹の叢林には常住物等あり。故にその労なし。我が国の寺院には常住物なし。乞食の儀も即ち絶えたり、...
文献

『正法眼蔵随聞記』29、人は思い切って命をも捨て

示して云く、人は思い切って命をも捨て、身肉手足をも斬る事は中々せらるるなり。然れば、世間の事を思い、名利執心の為にも、是のごとく思うなり。ただ依り来る時に触れ、物に随って心品を調うる事難きなり。学者、命を捨つると思うて、しばらく推し静めて、云うべき事をも修すべき事をも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいいもし、行じもすべきなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を...
文献

『正法眼蔵随聞記』34、今の世、出世間の人

夜話に云く、今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまえて人に識られんと思い、悪事をなしては人に知られじと思う。これに依って内外不相応の事出来たる。相構えて内外相応し、誤りを悔い、実徳を蔵して、外相を荘らず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向かうる志気有るべきなり。問うて云く、実徳を蔵し外相を荘らざらんこ事、実に然るべし。但し、仏菩薩の大悲は利生を以て本とす。無智の道俗等、外相の不善を見て是れを謗難せば、謗僧の罪を感ぜん。実徳を知らずとも外相を見て貴び供養せば、一分の福分たるべし。是れらの斟酌いかなるべきぞ。答えて云く、外相を荘らずと云って、即ち放逸ならば、また是れ道理にたがう。実徳を蔵す...
文献

『正法眼蔵随聞記』36、行者先ず心を調伏しつれば

示して云く、行者先ず心を調伏しつれば、身をも世をも捨つる事は易きなり。ただ言語につき行儀につきて人目を思う。この事は悪事なれば人悪く思うべしとて為さず、我れこの事をせんこそ仏法者と人は見めとて、事に触れよき事をせんとするもなお世情なり。然ればとて、また、恣いままに我意に任せて悪事をするは一向の悪人なり。所詮は悪心を忘れ、我が身を忘れ、ただ一向に仏法の為にすべきなり。向かい来らん事に従って用心すべきなり。初心の行者は、先ず世情なりとも人情なりとも、悪事をば心に制して、善事をば身に行ずるが、即ち身心を捨つるにて有るなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求する...
文献

『正法眼蔵随聞記』98、人の心元より善悪なし

一日雑話の次に云く、人の心元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。仮令、人発心して山林に入る時は、林家はよし、人間はわるしと覚ゆ。また退心して山林を出る時は、山林はわるしと覚ゆ。是れ即ち決定して心に定相なくして、縁にひかれて兎も角もなるなり。故に善縁にあえばよくなり、悪縁に近づけばわるくなるなり。我が心本よりわるしと思うことなかれ。ただ善縁に随うべきなり。また云く、人の心は決定人の言に随うと存ず。大論に云く、「喩えば愚人の手に摩尼を以てるが如し。是れを見て、『汝下劣なり、自ら手に物をもてり。』と云うを聞いて思わく、『珠は惜しし、名聞は有り。我れは下劣ならじ。』と思う。思いわずらいて、なお名聞に...
文献

『正法眼蔵随聞記』89、学人、人の施を受けて悦ぶ事なかれ

示して云く、学人、人の施を受けて悦ぶ事なかれ。また受けざる事なかれ。故僧正の云く、「人の供養を得て悦ぶは制にたがう。悦ばざるは檀那の心にたがう。」と。この故実は、我れに供養ずるにあらず、三宝に供ずるなり。故に彼の返り事に云うべし。「この供養、三宝定めて納受あるらん。申しけがす。」と云うべきなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に...
文献

『法句経』ダンマパダ【 第23章 象 】

320 戦場の象が、射られた矢に当たっても堪え忍ぶように、我は人のそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。321 馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗り物ともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。322 馴らされたラバは良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己を整えた人はそれらよりもすぐれている。323 何となれば、これらの乗り物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、自らをよく整えて赴く。324 「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみ...
文献

『法句経』ダンマパダ【 第20章 道 】

273 諸々の道の内では、八つの部分よりなる正しい道(八正道)が最もすぐれている。諸々の真理の内では、四つの句(四諦)がもっともすぐれている。諸々の徳の内では、情欲を離れることが最もすぐれている。人々の内では、眼ある人(ブッダ)が最もすぐれている。274 これこそ道である。真理を見る働きを清めるためには、この他に道は無い。あなたたちはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして打ちひしぐものである。275 あなたたちがこの道を行くならば、苦しみをなくすことが出来るであろう。棘や矢が肉に刺さったのであれば、棘や矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしはあなたたちにこの道を説いたのだ。276 あなたたちは...
文献

『法句経』ダンマパダ【 第12章 自己 】

157 もしも人が自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分の内の一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。158 先ず自分を正しく整え、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。159 他人に教える通りに、自分でも行なえ。自分をよく整えた人こそ、他人を整え得るであろう。自己は実に制し難い。160 自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?自己をよく整えたならば、得難き主を得る。161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起こった悪が知慧悪しき人を打ちくだく。金剛石が宝石を打ちくだくように。162 極めて性の悪い人は、仇...
文献

『法句経』ダンマパダ【 第3章 心 】

33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを真っすぐにする。弓師が矢の弦を真っすぐにするように。34 水の中の住居から引き出されて陵の上になげすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配(煩悩による生死流転の輪)から逃れようとしてもがきまわる。35 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままに赴く。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。36 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままに赴く。英知ある人は心を守る。心を守ったならば、安楽をもたらす。37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する...
文献

スッタニパータ【第1 蛇の章】9、雪山に住む者

153 七岳という神霊(夜叉)が言った、「今日は十五日のウポーサタである。みごとな夜が近づいた。さあ、我々は世にもすぐれた名高い師ゴータマ(ブッダ)にお目にかかろう。」154 雪山に住む者という神霊(夜叉)が言った、「このように立派な人の心は一切の生きとし生けるものに対してよく安立しているのだろうか。望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、彼の意欲はよく制されているのであろうか?」155 七岳という神霊は答えた、「このように立派なかれ(ブッダ)の心は、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、彼の意欲はよく制されている...
文献

スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】2、学生アジタの質問

1032 アジタさんがたずねた、「世間は何によって覆われているのですか?世間は何によって輝かないのですか?世間をけがすものは何ですか?世間の大きな恐怖は何ですか?それを説いてください。」1033 師(ブッダ)が答えた、「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、と私は説く。」1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか?その流れを防ぎ守るものは何ですか?その流れは何によって塞がれるのでしょうか?それを説いてください。」1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけ...