自分のことばかり考えずに名誉心をも捨てる

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『正法眼蔵随聞記』85、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ

示して云く、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。その故実は、我が身心を一物ものこざず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。その後は一切の是非を管ずる事なく、我が心を存ずる事なく、成し難き事なりとも仏法につかわれて強いて是れをなし、我が心になしたき事なりとも、仏法の道理に為すべからざる事ならば放下すべきなり。あなかしこ、仏道修行の功をもて代わりに善果を得んと思う事なかれ。ただ一たび仏道に廻向しつる上は、二たび自己をかえりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存ずる事なかれ。先証皆是の如し。心に願いて求むる事なければ即ち大安楽なり。世間の人にまじわ...
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『正法眼蔵随聞記』92、古人多くは云く光陰虚しく度る事なかれ

示して云く、古人多くは云く、「光陰虚しく度る事なかれ。」と。あるいは云く、「時光、徒らに過ごす事なかれ。」と。学道の人、すべからく寸陰を惜しむべし。露命消えやすし、時光すみやかに移る。しばらく存ずる間に余事を管ずる事なく、ただすべからく道を学すべし。今の時の人、あるいは父母の恩捨て難しと云い、あるいは主君の命背き難しと云い、あるいは妻子の情愛離れ難しと云い、あるいは眷属等の活命我れを存じ難しと云い、あるいは世人謗つつべしと云い、あるいは貧しうして道具調え難しと云い、あるいは、非器にして学道にたえじと云う。是のごとき等の世情を巡らして、主君父母をも離れず、妻子眷属をもすてず、世情にしたがい、財色...
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『正法眼蔵随聞記』104、古人の云く百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし

示して云く、古人の云く、「百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし。」と。この心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なお手足をはなちて即ち身心を放下せんが如し。是れについて重々の事あり。今の世の人、世をのがれ家を出たるに似れども、行履をかんがうれば、なを真の出家にてはなきもあり。いはゆる出家と云うは、先ず吾我名利を離るべきなり。是れを離れずしては、行道頭燃を払い、精進手足をきれども、ただ無理の勤苦のみにて、出離にあらざるもあり。大宋国にも離れ難き恩愛を離れ、捨て難き世財を捨てて、叢林に交わり、祖席をふれども、審細にこの故実を知らずして行じゆくによりて、道をも悟らず、心をも明らめずしていたずらに一期をすぐすも...
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『正法眼蔵随聞記』34、今の世、出世間の人

夜話に云く、今の世、出世間の人、多分は善事をなしては、かまえて人に識られんと思い、悪事をなしては人に知られじと思う。これに依って内外不相応の事出来たる。相構えて内外相応し、誤りを悔い、実徳を蔵して、外相を荘らず、好事をば他人に譲り、悪事をば己に向かうる志気有るべきなり。問うて云く、実徳を蔵し外相を荘らざらんこ事、実に然るべし。但し、仏菩薩の大悲は利生を以て本とす。無智の道俗等、外相の不善を見て是れを謗難せば、謗僧の罪を感ぜん。実徳を知らずとも外相を見て貴び供養せば、一分の福分たるべし。是れらの斟酌いかなるべきぞ。答えて云く、外相を荘らずと云って、即ち放逸ならば、また是れ道理にたがう。実徳を蔵す...
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『正法眼蔵随聞記』36、行者先ず心を調伏しつれば

示して云く、行者先ず心を調伏しつれば、身をも世をも捨つる事は易きなり。ただ言語につき行儀につきて人目を思う。この事は悪事なれば人悪く思うべしとて為さず、我れこの事をせんこそ仏法者と人は見めとて、事に触れよき事をせんとするもなお世情なり。然ればとて、また、恣いままに我意に任せて悪事をするは一向の悪人なり。所詮は悪心を忘れ、我が身を忘れ、ただ一向に仏法の為にすべきなり。向かい来らん事に従って用心すべきなり。初心の行者は、先ず世情なりとも人情なりとも、悪事をば心に制して、善事をば身に行ずるが、即ち身心を捨つるにて有るなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求する...
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『正法眼蔵随聞記』39、学道の人は人情をすつべきなり

夜話に云く、学道の人は人情をすつべきなり。人情を捨つると云うは、仏法に順じ行ずるなり。世人多くは小乗根性なり。善悪を弁じ是非を分ち、是を取り非を捨つるはなお是れ小乗の根性なり。ただ世情を捨つれば仏道に入るなり。仏道に入るには善悪を分ち、よしと思い、あししと思う事を捨て、我が身よからん、我が心何とあらんと思う心を忘れ、善くもあれ悪しくもあれ、仏祖の言語行履に順い行くなり。我が心に善しと思い、また世人のよしと思う事、必ずよからず。然れば、人目も忘れ、心をも捨て、ただ仏教に順い行くなり。身も苦しく、心も患とも、我が身心をば一向に捨てたるものなればと思うて、苦しく愁つべき事なりとも、仏祖先徳の行履なら...
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『正法眼蔵随聞記』60、世人を見るに果報もよく

夜話に云く、世人を見るに果報もよく、家をも起こす人は、皆正直に、人の為にもよきなり。故に家をも持ち、子孫までも絶えざるなり。心に曲節あり人の為にあしき人は、たとひ一旦は果報もよく、家をたもてるようなれども、始終あしきなり。たとひまた一期はよくてすぐせども、子孫未だ必ずしも吉ならざるなり。また人のために善き事を為して、彼の主に善しと思われ悦びられんと思うてするは、悪しきに比すれば勝れたれども、なお是れは自身を思うて、人のために実に善きにあらざるなり。主には知られずとも、人のためにうしろやすく、乃至未来の事、誰がためと思わざれども、人のためによからん料の事を作し置きなんどするを、真に人のため善きと...
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『正法眼蔵随聞記』76、愚癡なる人は

また云く、愚癡なる人はその詮なき事を思い云うなり。此につかわるる老尼公、当時いやしげにして有るを恥ずるかにて、ともすれば人に向っては昔上郎にて有りし由を語る。喩えば今の人にさありけりと思われたりとも、何の用とも覚えず。甚だ無用なりと覚ゆるなり。皆人のおもわくは、この心あるかと覚ゆるなり。道心無きほども知らる。此らの心を改めて、少し人には似べきなり。またあるいは入道の極めて無道心なる。去り難き知音にてあるに、道心おこらんと仏神に祈誓せよと云わんと思う。定めて彼腹立して中たがう事あらん。然れども道心をおこさざらんには、得意にてもたがいに詮なかるべし。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このペ...
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『正法眼蔵随聞記』91、真浄の文和尚

示して云く、真浄の文和尚、衆に示して云く、「我れ昔雪峰とちぎりを結びて学道せし時、雪峰同学と法門を論じて、衆寮に高声に諍談す。ついに互いに悪口に及ぶ。よって誼す。事散じて、峰、真浄にかたりて云く、『我れ汝と同心同学なり。契約浅からず。何が故に我れ人とあらそうに口入れせざる。』浄、揖して恐惶せるのみなり。その後、彼も一方の善知識たり、我れも今住持たり。そのかみおもえらく、法門論談すら畢竟じて無用なり。況んや諍論は定めて僻事なるべし。我れ争って何の用ぞと思いしかば、無言にして止りぬ。」と。今の学人も門徒も、その跡を思うべし。学道勤労の志あらば、時光を惜しんで学すべし。何の暇にか人と諍論すべき。畢竟...
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『正法眼蔵随聞記』105、衣食の事兼ねてより思いあてがふ事なかれ

示して云く、衣食の事、兼ねてより思いあてがう事なかれ。もし失食絶煙の時、その処にして乞食せん、その人に用事云わんなんど思いたるも、即ち物をたくわえ、邪食にて有るなり。衲子は雲の如く定まれる住処もなく、水の如く流れてゆきてよる所もなきを、僧とは云うなり。たとひ衣食の外に一物も持たずとも、一人の檀那をもたのみ、一類の親族をも思いたらんは、即ち自他ともに結縛の事にて、不浄食にてあるなり。是くのごとき不浄食等をもてやしないもちたる身心にて、諸仏の清浄の大法を悟らん、心得んと思うとも、何にもかなうまじきなり。たとえば藍にそめたる物は青く、蘗にそめたる物は黄なるが如くに、邪命食をもてそめたる身心は即ち邪命...
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『正法眼蔵随聞記』33、もし人来って用事を云う中に

夜話に云く、もし人来って用事を云う中に、あるいは人に物を乞い、あるいは訴訟等の事をも云わんとて、一通の状をも所望する事出来有るに、その時、我は非人なり、遁世籠居の身なれば、在家等の人に非分の事を謂わんは非なりとて、眼前の人の所望を叶えぬは、その時に臨み思量すべきなり。実に非人の法には似たれども、然有らず。その心中をさぐるに、なお我れは遁世非人なり、非分の事を人に云はば人定めて悪しく思いてんと云う道理を思うて聞かざらんは、なお是れ我執名聞なり。ただ眼前の人の為に、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思わん事を顧みず為すべきなり。このこと非分なり、悪しとてうとみもし、中をも違わんも、是のごとき...
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『正法眼蔵随聞記』84、仏法のためには身命をおしむ事なかれ

一日示して云く、仏法のためには身命をおしむ事なかれ。俗なお道を思えば、身命をすて親族をかえりみず忠節をつくす。是れを忠臣とも賢者とも云うなり。昔、漢の高祖、隣国と軍を興す。時にある臣下の母、敵国にありき。官軍も二心有らんかと疑いき。高祖ももし母を思うて敵国へ去る事もやあらんずらん、もし去るならば軍やぶるべしとあやぶむ。ここに母も、我が子もし我れ故に二心もやあらんずらんと思うて、いましめて云く、「我れによりて我が国に来る事なかれ。割れによりて軍の忠をゆるくする事なかれ。割れもし生きたらば汝もし二心もこそあらん。」と云って、剣に身をなげてうせしかば、その子、もとより二心なかりしかば、その軍に忠節を...
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『正法眼蔵随聞記』86、俗人の云く、財はよく身を害す

一日示して云く、俗人の云く、「財はよく身を害す。昔もこれあり、今もこれあり。」と。言う心は、昔一人の俗人あり。一人の美女をもてり。威勢ある人これを請う。かの夫、是れを惜しむ。終に軍を興して囲めり。彼のいえ既に奪い取られんとする時、かの夫云く、「汝が為に命を失うべし。」かの女云く、「我れ汝が為に命を失わん。」と云って、高桜より落ちて死にぬ。その後、かの夫うちもらされて、命遁れし時いいし言なり。昔、賢人、州吏として国を行なう。時に息男あり、父を拝してさる時、一疋の縑を与う。息の云く、「君、高亮なり。この縑いづくよりか得たる。」父云く、「俸禄のあまりあり。」息かえりて皇帝に参らす。帝はなはだその賢を...
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『正法眼蔵随聞記』93、学道はすべからく吾我を離るべし

一日示して云く、学道はすべからく吾我を離るべし。たとひ千経万論を学し得たりとも、我執を離れずは終に魔坑に落つ。古人云く、「仏法の身心なくは、いづくんぞ仏となり祖とならん。」と。我を離ると云うは、我が身心を捨てて、我がために仏法を学する事無きなり。ただ道のために学すべし。身心を仏法に放下しつれば、くるしく愁うけども、仏法に従って行じゆくなり。乞食をせば人是れをわるしと思わんずるなんど、是のごとく思うほどに、何にも仏法に入り得ざるなり。世情の見を全て忘れて、ただ道理に任せて学道すべきなり。我が身の器量をかえりみ、仏法にもかなうまじきなんど思うも、我執を持てる故なり。人目をかえりみ、人情をはばかる、...
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『法句経』ダンマパダ【 第5章 愚かな人 】

60 眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分に等しい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。62 「私には子がある。私には財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、愚者だと言われる。64 愚かな者は生涯賢者に...