分け隔てする心を改める

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『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

まことにそれとうしき、誠に夫れ当職、せんもんげんしょう、先聞現証、めにありみみにあり。眼に在り耳に在り。もじありどうりあり。文字有り道理有り。しょうてきというべきか。たとい正的と謂うべきか。縦いしゅくはんじゅうのなをかたじけのうせば粥飯頭の名を忝うせば、しんじゅつもまたこれにどうずべし、心術も亦之に同ずべし、『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、「にじのしゅくはん、りすること「二時の粥飯、理することまさにせいほうなるべし。合に精豊なるべし。しじのくすべからくけっしょう四事の供すべからく闕少せしむることなかるべし。せしむること無かるべし。せそん20ねんのいおん、世尊二十年の遺恩、じそん...
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『典座教訓』8、ことに見合った細かい心配り

このごとくさんらいしさんきょして、此の如く参来し参去して、もしせんごうのぎさいあらば、如し纎毫の疑猜有らば、たのどうす、他の堂司、およびしょりょうのちょうしゅ、及び諸寮の頭首、りょうしゅ、りょうしゅそとうにとい、寮主、寮首座等に問い、うたがいをしょうしきたってすなわち疑を銷し来って便ちしょうりょうすらく、商量すらく、いちりゅうべいをきっするに、一粒米を喫するに、いちりゅうべいをそえ、一粒米を添え、いちりゅうべいをわかちうれば、一粒米を分ち得れば、かえってりょうこのはんりゅうべいをえる却て両箇の半粒米を得。さんぶん、よんぶん、いちはん、三分、四分、一半、りょうはんあり。たのりょうこの両半あり。他...
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『典座教訓』6、よし悪しの隔てなく授かる心

いわゆるたといいわゆる縦いふさいこうふさいこうをつくるときも、莆菜羮を作る時も、けんおきょうこつのこころをしょうずべ嫌厭軽忽の心を生ずべからず。たといづにゅうこうをつくるからず。縦い頭乳羮を作るときも、きやくかんえつ のこころを時も、喜躍歓悦の心をしょうずべからず。生ずべからず。すでにたんぢゃくなし、既に耽著無し、なんぞおいあらん。何ぞ悪意有らん。しかればすなわち、そにむかうといえども然れば則ち、麁に向うと雖もまったくたいまんなく、さいにあうと全く怠慢無く、細に逢うといえどもいよいよしょうじんあるべし。雖も弥精進有るべし。せつにものおうて切に物を遂うてこころをへんずることなかれ。心を変ずること...
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『典座教訓』20、天地の寸法は隔たりがない

いわゆる、だいしんとは、いわゆる、大心とは、そのこころをだいせんにし、其の心を大山にし、そのこころをたいかいにし、其の心を大海にし、へんなくとうなきこころなり。偏無く党無き心なり。りょうをかかげてかろしとせず、両を提げて軽しと為ず、きんをあげておもしとすべからず。鈞を扛げて重しとすべからず。しゅんせいにひかれて春声に引かれてしゅんたくにあそばず。春沢に游ばず。しゅうしきをみるといえども秋色を見ると雖もさらにしゅうしんなく、更に秋心無く、しうんをいっけいにあらそい、四運を一景に競い、しゅりょうをいちもくにみる。銖両を一目に視る。このいっせつにおいて、是の一節に於いて、だいのじをしょすべし。大の字...
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『正法眼蔵随聞記』65、人は必ず陰徳を修すべし

一日示して云く、人は必ず陰徳を修すべし。必ず冥加顕益有るなり。たとい泥木塑像の麁悪なりとも仏像をば敬礼すべし。黄紙朱軸の荒品なりとも、経教をば帰敬すべし。破戒無慚の僧侶なりとも僧躰をば仰信すべし。内心に信心をもて敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり。破戒無慚の僧なれば、疎相麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を被るなり。しかあるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像・経巻・僧侶なり。故に帰敬すれば益あり、不信なれば罪を受くるなり。何に希有に浅増くとも、三宝の境界をば恭敬すべきなり。禅僧は善を修せず功徳を要せずと云って悪行を好む、きわめて僻事なり。先規いまだ是の如くの悪行を好む事を聞かず。丹...
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『正法眼蔵随聞記』101、大慧禅師の云く

示して云く、大慧禅師の云く、「学道はすべからく人の千万貫銭をおえらんが、一文をも持たざらん時、せめられん時の心の如くすべし。もしこの心あらば、道を得る事やすし。」と云えり。信心銘に云く、「至道かたき事なし、ただ揀択を嫌う。」と。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すと云うは、我を離るるなり。いわゆる我が身仏道をならん為に仏法を学する事なかれ。ただ仏法の為に仏法を行じゆくなり。たとひ千経万論を学し得、坐禅床をやぶるとも、この心無くは、仏祖の道を学し得べからず。ただすべからく身心を仏法の中に放下して、他に随うて旧見なければ、即ち直下に承当するなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(は...
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『正法眼蔵随聞記』63、唐の太宗即位の後

一夜示して云く、唐の太宗即位の後、旧き殿に栖み給えり。破損せる間、湿気あがり、侵して玉躰侵さるべし。臣下作造るべき由を奏しければ、帝の云く、「時、農節なり。民定めて愁あるべし。秋を待って造るべし。湿気に侵されば地に受けられず、風雨に侵されば天に叶わざるなり。天地に背かば身あるべからず、民を煩わさずんば自ら天地に叶うべし。天地に叶わば身を犯すべからず。」と云って、終に宮を作らず、古き殿に栖み給えり。況んや仏子は、如来の家風を受け、一切衆生を一子の如くに憐れむべし。我れに属する侍者所従なればとて、呵嘖し煩わすべからず。何に況んや同学等侶耆年宿老等を恭敬する事、如来の如くすべしと、戒文分明なり。然れ...
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『正法眼蔵随聞記』80、俗人の云く城を傾くる事は

示して云く、俗人の云く、「城を傾くる事は、うちにささやき事出来るによる。」また云く、「家に両言有る時は針をも買ふ事なし。家に両言無き時は金をも買うべし。」と。俗人なお家をもち城を守るに同心ならでは終にほろぶと云えり。況んや出家人は、一師にして水乳の和合せるが如し。また六和敬の法あり。各々寮々を構えて心身を隔て、心々に学道の用心する事なかれ。一船に乗って海を渡るが如し。心を同じくし、威儀を同じくし、互いに非をあげ是をとりて、同じく学道すべきなり。是れ仏在世より行じ来れる儀式なり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方...
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『正法眼蔵随聞記』60、世人を見るに果報もよく

夜話に云く、世人を見るに果報もよく、家をも起こす人は、皆正直に、人の為にもよきなり。故に家をも持ち、子孫までも絶えざるなり。心に曲節あり人の為にあしき人は、たとひ一旦は果報もよく、家をたもてるようなれども、始終あしきなり。たとひまた一期はよくてすぐせども、子孫未だ必ずしも吉ならざるなり。また人のために善き事を為して、彼の主に善しと思われ悦びられんと思うてするは、悪しきに比すれば勝れたれども、なお是れは自身を思うて、人のために実に善きにあらざるなり。主には知られずとも、人のためにうしろやすく、乃至未来の事、誰がためと思わざれども、人のためによからん料の事を作し置きなんどするを、真に人のため善きと...
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『正法眼蔵随聞記』32、世人多く善事を成す時は

夜話に云く、世人多く善事を成す時は人に知られんと思い、悪事を成す時は人に知られじと思うに依って、この心冥衆の心にかなわざるに依って、所作の善事に感応なく、密に作す所の悪事には罰有るなり。己に依って返りて自ら思わく、善事には験なし、仏法の利益なしなんど思えるなり。是れ即ち邪見なり。もっとも改むべし。人も知らざる時は潜に善事をなし、悪事を成して後は発露して咎を悔ゆ。是のごとくすれば即ち密々になす所の善事には感応あり、露れたる悪事は懺悔せられて罪滅する故に、自然に現益も有るなり。当果をも知るべし。ここに有る在家人、来って問うて云く、「近代在家人、衆僧を供養し仏法を帰敬するに多く不吉のこと出来るに因っ...
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『正法眼蔵随聞記』45、今この国の人は

夜話に云く、今この国の人は、多分あるいは行儀につけ、あるいは言語につけ、善悪是非、世人の見聞識知を思うて、その事をなさば人あしく思いてん、その事は人よしと思いてん、乃至向後までもと執するなり。是れまた全く非なり。世間の人、必ずしも善とする事あたはず。人はいかにも思わば思え、狂人とも云え、我が心に仏道に順じたらばなし、仏法にあらずは行ぜずして一期をもすごさば、世間の人はいかに思うとも、苦しかるべからず。遁世と云うは、世人の情を心にかけざるなり。ただ仏祖の行履、菩薩の慈行を学行して、諸天善神の冥にてらす処に慚愧して、仏制に任せて行じもてゆかば、一切苦しかるまじきなり。さればとてまた、人のあししと思...
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『正法眼蔵随聞記』88、僧問うて云く、智者の無道心なると

一日僧問うて云く、「智者の無道心なると、無智の有道心なると、始終如何。」示して云く、無智の道心、始終退する事多し。智慧ある人、無道心なれどもついに道心をおこすなり。当世現証是れ多し。しかあれば、先ず道心の有無をいわず、学道勤労すべきなり。また云く、内外の書籍に、まずすして居所なく、あるいは滄浪の水にうかび、あるいは首陽の山にかくれ、あるいは樹下露地に端坐し、あるいは塚間深山に草庵する人もあり。また富貴にして財多く、朱漆をぬり、金玉をみがき、宮殿等をつくるもあり。倶に典籍にのせたりと云えども、褒めて後代をすすむるには皆貧にして無財なるを以て本とす。そしりて来業をいましむるには、財多きを驕奢のもの...
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『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて

一夜示して云く、大宋の禅院に麦米等をそろえて、あしきをさけ、よきをとって飯等にする事あり。是れをある禅師云く、「たとひ我が頭を打ち破る事七分にすとも、米をそろうる事なかれ。」と、頌に作って戒めたり。この心は、僧は斎食等を調えて食する事なかれ。ただ有るにしたがいて、よければよくて食し、あしきをもきらわずして食すべきなり。ただ檀那の信施、清浄なる常住食を以て餓を除き、命をささえて行道するばかりなり。味を思うて善悪をえらぶ事なかれと云うなり。今我が会下の諸衆、この心あるべし。因みに問うて云く、学人もし「自己仏法なり、また外に向って求むべからず。」と聞いて、深くこの語を信じて、向来の修行参学を放下して...
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『正法眼蔵随聞記』59、世間の女房なんどだにも

ある時、比丘尼云く、「世間の女房なんどだにも、仏法とて学すれば、比丘尼の身には少々の不可ありとも何で叶わざるべきと覚ゆ。如何。」と云いし時、示して云く、この義然るべからず。在家の女人その身ながら仏法を学んで得る事はありとも、出家の人の出家の心なからんは得べからず。仏法の人をえらぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり。出家在家の儀、その心殊なるべし。在家人の出家の心あらば出離すべし。出家人の在家の心あらば二重の僻事なり。用心殊なるべき事なり。作す事の難きにはあらず。よくする事の難きなり。出離得道の行は、人ごとに心にかけたるに似たれども、よくする人の難きなり。生死事大なり、無常迅速なり。心をゆるく...
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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】5、最上についての八つの詩句

796 世間では、人は諸々の見解の内で勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解は全て「つまらないものである」と説く。それ故に彼は諸々の論争を超えることがない。797 世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることの内のみ勝れた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものを全てつまらぬものであると見なす。798 人が何かあるものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真実に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道...