物質的に豊かではない事のメリット

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『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

しらずんばあるべからず。知らずんばあるべからず。おもうべし想うべしふさいよくしょうたいをやしない、莆菜能く聖胎を養い、よくどうがをしょうずることを。能く道芽を長ずることを。いやしとなすべからず、賤しと為すべからず、かろしとなすべからず。軽ろしと為すべからず。にんでんのどうし、ふさいの人天の導師、莆菜のけやくをなすべきものなり。また化益を為すべき者なり。又たしゅそうのとくしつを衆僧の得失をみるべからず、見るべからず、しゅそうのろうしょうを衆僧の老少をかえりみるべからず。顧みるべからず。じなおじのらくしょをしらず、自猶お自の落処を知らず、たいかでかたの佗争でか佗のらくしょをしることをえんや。落処を...
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『正法眼蔵随聞記』4、学道の人、衣食に労する事なかれ

雑話の次、示して云く、学道の人、衣食に労することなかれ。この国は辺地小国なりといえども、昔も今も顕密二道に名を得、後代にも人に知られたる人、いまだ一人も衣食に豊なりと云う事を聞かず。皆貧を忍び他事を忘れて一向にその道を好む時、その名をも得るなり。いわんや学道の人は、世度を捨てて走らず。何としてか豊かなるべき。大宋国の叢林には、末代なりといえども、学道の人千万人の中に、あるいは遠方より来り、あるいは郷土より出来るも、多分皆貧なり。しかれども愁えとせず、ただ悟道の未だしき事を愁えて、あるいは桜上もしくは閣下に、考妣を喪せるが如くにして道を思うなり。まのあたり見しは、西川の僧、遠方より来りし故に所持...
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『正法眼蔵随聞記』12、道者の用心

示して云く、道者の用心、常の人に殊なる事あり。故建仁寺の僧正在世の時、寺絶食す。ある時一人の檀那請じて絹一疋施す。僧正悦びて自ら取って懐中して、人にも持たせずして、寺に返って知事に与へて云く、「明旦の浄粥等に作さるべし。」然るに俗人のもとより所望して云く、「恥がましき事有って絹二三疋入る事あり。少々にてもあらば給はるべき」よしを申す。僧正則ち先の絹を取り返して即ち与へぬ。時にこの知事の僧も衆僧も思いの外に不審す。後に僧正自ら云く、「各々、僻事にぞ思わるらん。しかれども、我れ思わくは、衆僧面々仏道の志ありて集れり。一日絶食して餓死するとも、苦しかるべからず。俗の世に交われるが、差し当たって事闕ら...
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『正法眼蔵随聞記』66、学道の人は先ずすべからく貧なるべし

一日僧来って学道之用心を問う次に示して云く、学道の人は先ずすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。在家学道の者、なお財宝にまとわり、居所を貪り、眷属に交われば、たとひその志ありと云えども障道の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云えども、なお僧には及ばず。僧は三衣一鉢の外は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる間、一向に学道す。是れは分々皆得益有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり。龐公は俗人なれども僧におとらず禅席に名を留めたるは、かの人参禅のはじめ、家の財宝を以ちて出でて海に沈めんとす。人之れを諌めて云く、「人にも与へ、仏事にも用うべし。」他に対えて云く、「...
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『正法眼蔵随聞記』106、学人各々知るべし

示して云く、学人各々知るべし、人々一の非あり、憍奢是れ第一の非なり。内外の典籍に同じく是れをいましむ。外典に云く、「貧しくしてへつらわざるはあれども、富みておごらざるはなし。」と云って、なお富を制しておごらざる事を思うなり。この事大事なり。よくよく是れを思うべし。我が身下賤にして人におとらじと思い、人に勝れんと思わば憍慢のはなはだしきものなり。是れはいましめやすし。仮令世間に財宝に豊かに、福力もある人、眷属も囲繞し、人もゆるす、かたわらの人のいやしきが、これを見て卑下する、このかたわらの人の卑下をつつしみて、自躰福力の人、いかようにかかすべき。憍心なけれども、ありのままにふるまえば、傍らの賤し...
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『正法眼蔵随聞記』61、学道の人は尤も貧なるべし

夜話に云く、学道の人は尤も貧なるべし。世人を見るに、財有る人は先ず嗔恚恥辱の二難定って来るなり。財有れば人是れを奪い取らんと欲う。我れは取られじとする時、嗔恚たちまちに起る。あるいは之れを論じて問注対決に及び、ついには闘諍合戦をいたす。是のごとくの間に、嗔恚起り恥辱来るなり。貧にしてしかも貪らざる時は、先ずこの難を免る。安楽自在なり。証拠眼前なり。教文を待つべからず。しかのみならず先人後賢之れをそしり、諸天仏祖皆之を恥じしむ。而るを、愚人と為財宝を貯わえ、嗔恚をいだき、愚人と成らん事、恥辱の中の恥辱なり。貧にして而も道を思う者は先賢後聖之仰ぐ所、仏祖冥道之喜ぶ所なり。仏法陵遅し行く事眼前に近し...
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『正法眼蔵随聞記』73、俗人の云く何人か厚衣を欲せざらん

一日示して云く、俗人の云く、「何人か厚衣を欲せざらん、誰人か重味を貪らざらん。然れども、道を存ぜんと思う人は、山に入り水にあき、寒きを忍び餓えをも忍ぶ。先人くるしみ無きにあらず、是れを忍びて道を守れば、後人是れを聞いて道を慕い、徳をこふるなり。」と。俗の賢なる、なお是の如し。仏道豈然らざらんや。古人も皆金骨にあらず、在世もことごとく上器にあらず。大小の律蔵によりて諸比丘をかんがうるに、不可思議の不当の心を起こすもありき。然れども、後には皆得道し羅漢となれり。しかあれば、我らも悪くつたなしと云えども、発心修行せば得道すべしと知って、即ち発心するなり。古えも皆苦をしのび寒をたえて、愁ながら修道せし...
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『正法眼蔵随聞記』82、ある客僧の云く、近代の遁世の法

一日ある客僧の云く、「近代の遁世の法、各々時料等の事、かまえて、後、わづらいなきように支度す。これ小事なりと云えども学道の資縁なり。かけぬれば事の違乱出来る。今この御様を承り及ぶに、一切その支度なく、ただ天運にまかすと。こと実ならば、後時の違乱あらん。如何。」示して云く、事皆先証あり。敢て私曲を存ずるにあらず。西天東地の仏祖皆是の如し。私に活計を至さん、尽期有るべからず。またいかにすべしとも定相なし。この様は、仏祖皆行じ来れるところ、私なし。もし事闕如し絶食せば、その時こそ退しもし、方便をもめぐらさめ。かねて思うべきにあらず。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性...
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『正法眼蔵随聞記』81、楊岐山の会禅師

示して云く、楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらい有りし時に、知事申して云く、「修理有るべし。」会云く、「堂閣破れたりとも露地樹下には勝れたるべし。一方破れてもらば一方のもらぬ所に居して坐禅すべし。堂宇造作によりて僧衆得悟すべくは、金玉をもてもつくるべし。悟りは居所の善悪によらず、ただ坐禅の功の多少に有るべし。」と。翌日の上堂に云く、「楊岐はじめて住するに屋壁疎なり。満床にことごとくちらす雪の珍珠。くびを縮却してそらに嗟嘘す。かえって思う古人の樹下に居せし事を。」と。ただ仏道のみにあらず。政道も是の如し。唐の太宗は居家をつくらず。龍牙云く、「学道は先ずすべからく貧を学すべし。貧を学して...
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『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて

一夜示して云く、大宋の禅院に麦米等をそろえて、あしきをさけ、よきをとって飯等にする事あり。是れをある禅師云く、「たとひ我が頭を打ち破る事七分にすとも、米をそろうる事なかれ。」と、頌に作って戒めたり。この心は、僧は斎食等を調えて食する事なかれ。ただ有るにしたがいて、よければよくて食し、あしきをもきらわずして食すべきなり。ただ檀那の信施、清浄なる常住食を以て餓を除き、命をささえて行道するばかりなり。味を思うて善悪をえらぶ事なかれと云うなり。今我が会下の諸衆、この心あるべし。因みに問うて云く、学人もし「自己仏法なり、また外に向って求むべからず。」と聞いて、深くこの語を信じて、向来の修行参学を放下して...
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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】16、サーリプッタ

955 サーリプッタさんが言った、「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。このように言葉美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで法楽を受けられた。957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。958 修行者は世をいとうて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、959 または種々の座所の内にいるのであるが、そこにはど...