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黄檗希運(おうばくきうん)

中国唐代の禅僧。諡は断際禅師。福州閩県の出身。百丈懐海に就いて嗣法。弟子には 臨済義玄、裴休がいる。黄檗山黄檗寺を開創。『黄檗希運禅師伝心法要』生誕 命日 大中4年(850年)<< 戻る
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橘逸勢(たちばなのはやなり)

平安時代初期の貴族・書家。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。生誕 延暦元年(782年)命日 承和9年8月13日(842年9月24日)<< 戻る
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塩官斉安(えんかんさいあん)

中国唐の時代の禅僧。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には宣宗がいる。斉安国師。海昌院。・「杭州塩官県斉安国師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、一切衆生有仏性。」(「正法眼蔵」仏性)生誕 命日 842年<< 戻る
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雲巌曇晟(うんがんどんじょう)

中国唐の時代の禅僧。鐘陵の出身。薬山惟儼に就いて嗣法。弟子には洞山良价がいる。生誕 780年命日 841年<< 戻る
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大梅法常(だいばいほうじょう)

中国唐の時代の禅僧。襄州襄陽の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には迦智、天龍がいる。大梅山。「正法眼蔵」行持・上より抜粋大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。かつて馬祖の会に参じてとふ、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と。法常この言葉をききて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷おほし。坐禅弁道すること三十余年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。師の坐禅には、八寸の鐵塔一基を頂上におく、如載宝冠...
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龍潭崇信(りゅうたんすうしん)

中国唐代の禅僧。渚宮の出身。天皇道悟に就いて嗣法。弟子には徳山宣鑑がいる。生誕 命日 838年<< 戻る
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南泉普願(なんせんふがん)

中国唐の時代の禅僧。鄭州新鄭県の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には趙州従諗、長沙景岑がいる。南泉山に禅院を構え、30数年間、南泉山を下ることがなかった。大和元年(827年)頃、宣歙観察使の陸亘の求めによって山を下り、名声が諸方にとどろき、門弟が数百になった。南泉斬猫。生誕 天宝7載(748年)命日 大和8年12月25日(835年1月27日)<< 戻る
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弘法大師 空海上人(こうぼうだいしくうかいしょうにん)

空海は、宝亀5(774)年6月15日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の四国香川県善通寺市)で誕生しました。父は、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)の三男で、幼名を真魚(まお)といいました。延暦7(788)年、平城京(古都。784年、長岡京に遷都)に出て、延暦8(789)年、母方の叔父さんである阿刀大足(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などを学びました。延暦11(792)年、18歳で長岡京の大学寮に入り、明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられます。大学寮の勉強だけではもの足らず、大学寮を去って仏道修行を始めました。一説には奈良岩渕寺の勤...
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薬山惟儼(やくさんいげん)

中国唐の時代の禅僧。絳州新絳県の出身。石頭希遷無際大師に就いて嗣法。弟子には雲巌曇晟がいる。諡は弘道大師。17歳で潮陽西山の慧照禅師によって出家し、29歳で衡岳寺の希操律師から具足戒を受け、石頭希遷無際大師に就いて嗣法。非思量の坐禅で知られる・「薬山弘道大師、ちなみに無際大師の指示によりて江西大寂禅師に参問す、三乗十二分教、某甲ほぼその宗旨をあきらむ。如何是祖師西来意(如何ならんか是れ祖師西来意)。かくのごとくとふに大寂禅師いはく、有時教伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむ)、有時不教伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしめず)。有時教伊揚眉瞬目者是(ある時は伊をして眉を揚...
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丹霞天然(たんかてんねん)

中国唐の時代の禅僧。婺州東陽県の出身。石頭希遷無際大師に就いて嗣法。弟子には翠微無学がいる。「選仏」「選仏場」の語源となった禅僧。・「丹霞天然禅師は木仏をたく、是れこそ悪事と見えたれども、是れも一段の説法施設なり。この師の行状の記を見るに、坐するに必ず儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向かうが如し。暫時の坐にも必ず跏趺し、叉手す。常住物を守る事眼睛の如くす。勤修するものあれば必ず加す。小善なれども是れを重くす。常図の行状勝れたり。彼の記をとどめて今の世までも叢林の亀鏡とするなり。」(『正法眼蔵随聞記』65、人は必ず陰徳を修すべし)生誕 739年命日 824年<< 戻る
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伝教大師 最澄上人(でんぎょうだいし さいちょうしょうにん)

最澄とは、平安時代の僧で、日本天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られます。中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建立して天台宗の開祖となりました。伝教大師とは、最澄のことで、日本で最初に賜った大師号です。最澄は、神護景雲元(767)年8月18日、現在の滋賀県大津市坂本の一帯を統治していた三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として誕生しました。俗名は広野(ひろの)です。宝亀9(778)年、12歳のとき、近江の国分寺(現在の大津市石山)に入り行表の弟子となります。宝亀11(780)年11月12日、14歳で国分寺僧補欠として得度し、「最澄」という名前が付きました。やがて奈良の都に行き、...
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麻浴宝徹(まよくほうてつ)

中国唐の時代の禅僧。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には寿州良遂がいる。「正法眼蔵」現成公案より抜粋麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理を知らずと。いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。時に、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。・・・・・・・・生誕 命日 << 戻る
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勝道(しょうどう)

奈良時代から平安時代初期にかけての僧。勝道上人と称されることが多い。俗姓は若田氏。幼名は藤糸丸。下野(しもつけ)の人。日光山を開き、中禅寺を建てたと伝えられる。桓武天皇より上野(こうずけ)の講師に任ぜられた。生誕 天平7年4月21日(735年5月17日)命日 弘仁8年3月1日(817年3月21日)<< 戻る
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興善惟寛(こうぜんいかん)

中国唐の時代の禅僧。衢州信安県の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には義崇、円鏡がいる。諡号は大徹禅師。西安大興禅寺。生誕 天宝14載(755年)命日 元和12年2月30日(817年3月21日)<< 戻る
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如宝(にょほう)

奈良時代から平安時代にかけての律宗の渡来僧。 胡国(西域と考えられている)の人で、鑑真の随員として日本を訪れた。鑑真死後に唐招提寺の長老となる。754年(天平勝宝6年)2月、鑑真と共に平城京に入る。同年4月、東大寺大仏殿前で盛大な受戒の儀が行われた際、如法も受戒して正規の僧となり、僧籍は薬師寺に置かれた。生誕 不明命日 弘仁6年1月7日(815年2月19日)<< 戻る
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百丈懐海(ひゃくじょうえかい)

中国唐の時代の禅僧。福州長楽県の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には潙山霊祐、黄檗希運がいる。諡は大智禅師。師の没後、洪州百丈山(江西省宜春市奉新県)に住し、はじめて、律院から独立した禅院を設立する。禅門の規範(清規/しんぎ)『百丈清規』を定め、自給自足の体制を確立した。生誕 天宝8載(749年)命日 元和9年1月17日(814年2月10日)<< 戻る
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西堂智蔵(せいどうちぞう)

中国唐の時代の禅僧。馬祖道一に就いて嗣法。「正法眼蔵」虚空より抜粋撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問ふ、汝還た虚空を捉得せんことを解脱する麼。西堂曰、捉得せんことを解脱す。師曰、儞作麼生か捉する。西堂、手を以て虚空を撮す。師曰、虚空を捉せんことを解脱せず。西堂曰、師兄作麼生か捉する。師、西堂が鼻孔を把りて拽く。西堂、忍痛の声を作して曰く、太殺人、人の鼻孔を拽いて、直得脱去す。師曰、直に恁地に捉することを得て始得ならん。生誕 735年命日 814年<< 戻る
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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度に渡り征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残した。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神や軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された...
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天皇道悟(てんのうどうご)

中国唐の時代の禅僧。婺州東陽県の出身。石頭希遷無際大師に就いて嗣法。弟子には龍潭崇信、慧真、文賁がいる。荊州当陽紫荊山ならびに荊州城東の天皇寺の住持を勤める。生誕 天宝7載(748年)命日 元和2年4月30日(807年6月9日)<< 戻る
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和気清麻呂(わけ の きよまろ)

奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。769年(神護景雲3年)、和気清麻呂の姉である尼僧・和気広虫(わけ の ひろむし)は、称徳天皇から宇佐八幡宮の神託(神のお告げ)をいただいてくるよう命じられましたが、九州までの長旅は虚弱な身体では耐えられないだろうという理由で、弟である和気清麻呂が代わりに向かうことになりました。その神託の内容は、称徳天皇が寵愛していた「僧・道鏡を皇位につける」という内容でした。神託に従えば、神武天皇から続いてきた皇族による皇位継承が途絶えることにもなります。そもそも、称徳天皇は生涯独身で子どもがなく、孝謙上皇時代(第46代孝謙天皇と...
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善珠(ぜんしゅ/ぜんじゅ)

奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は阿刀氏で、玄昉の子とする史書もあるが、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。法相六祖の1人。玄昉に師事して法相・因明に通じた。生誕 養老7年(723年)命日 延暦16年4月21日(797年5月25日)<< 戻る
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行表(ぎょうひょう)

奈良時代の僧。大和国葛上郡高宮郷の出身。父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。中国・北宗の禅で三祖にあたる道璿に師事して得度し、743年(天平15年)興福寺北倉院で受戒。弟子には伝教大師 最澄がいる。行表禅師。興福寺で禅・唯識を学ぶ。その後、近江国崇福寺の寺主となり1丈余りの千手観音菩薩を造り、次いで近江国の大国師となる。778年(宝亀9年)最澄の師となり、780年(宝亀11年)師主として最澄を得度させている。後に奈良大安寺に移る。最澄の「四種相承」(天台・密教・禅宗・大乗戒)の思想は、道璿が伝えた玉泉天台(荊州玉泉寺の天台)の影響とされる。生誕 養老6年(722年)命日 延暦16年2月...
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石頭希遷(せきとうきせん)

中国唐の時代の禅僧。端州高要県の出身。はじめ大鑑慧能のもとで学ぶもその遷化により兄弟子の青原行思に就いて嗣法。弟子には薬山惟儼、天皇道悟、丹霞天然がいる。諡は無際大師。著作に「参同契」。曹洞宗大本山總持寺には石頭のものとされるミイラが安置されている。生誕 久視元年(700年)命日 貞元6年12月25日(791年2月2日)<< 戻る
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馬祖道一(ばそどういつ)

中国唐の時代の禅僧。漢州什邡県の出身。南嶽懐譲に就いて嗣法。弟子には百丈懐海、南泉普願、大梅法常、塩官斉安、西堂智蔵、興善惟寛、麻浴宝徹がいる。諡は大寂禅師。洪州開元寺。『馬祖大寂禅師語録』日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残す。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法を始め、これによって多彩な弟子を育てた。・「南嶽の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。」(『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて)・「かつて馬祖の会に参じてとふ、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と...
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大伴家持(おおとものやかもち)

奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。生誕 養老2年(718年)頃命日 延暦4年8月28日(785年10月5日)<< 戻る
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南陽慧忠(なんようえちゅう)

中国唐の時代の禅僧。越州諸曁県の出身。大鑑慧能に就いて嗣法。弟子には耽源がいる。諡は大証禅師。粛宗・代宗と2代の皇帝の参禅の師となり、慧忠国師と称せられた。中国では単に国師といえば、慧忠のことを指すと言われる。大証国師。16歳の時、大鑑慧能の門下に入り、悟りを得た。師の入寂後は五嶺・四明山・天目山などを歴遊して参学し、南陽白崖山の党子谷に庵を結び40年の間隠棲した。上元2年(761年)、粛宗の勅命により長安に上り、宮廷において教えを授けた。生誕 上元2年(675年)命日 大暦10年12月19日(776年1月14日)<< 戻る
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吉備真備(きびのまきび)

奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に唐(中国)に入ります。唐で18年間、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学びました。唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは吉備真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどでした。聖武天皇の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着しますが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携え...
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道鏡(どうきょう)

道鏡とは、河内国若江郡(現在の八尾市の一部)出身の奈良時代の僧で、葛城山などで厳しい修業を積み、修験道や呪術にも優れ、孝謙上皇(東大寺を建てた聖武天皇と光明皇后の娘)の病気を治したことから重用されるようになりました。孝謙上皇とは、日本の歴史上8人の女性天皇が存在したその一人で、奈良時代に第46代の孝謙天皇(こうけんてんのう)、一旦譲位し、第48代の称徳天皇(しょうとくてんのう)として即位しています。道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐう しんたく じけん)が明るみに出たことや、天皇の後ろ盾を失くしたことで道鏡は失脚します。文武天皇4年(700年)、河内国若江郡(現在の八...
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鑑真(がんじん)

鑑真とは、中国(唐)から6度の航海の末に来日し、東大寺に戒壇を開き、律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされる中国人僧侶です。揚州江陽県に生まれ、14歳で智満について得度し、18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、律宗・天台宗を学びます。鑑真は「四分律」に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。日本から唐に渡った留学僧・栄叡、普照は授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、742年、戒律の僧として高名で揚州の大明寺の住職であった鑑真のもとを訪れます。栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけますが、危険な...
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道璿(どうせん)

中国唐の時代。蒲州河東県出身。中国の僧。普寂に就いて嗣法。弟子には行表がいる。洛陽大福先寺に住して定賓(じょうひん)に戒律を、北宗系の禅で二祖の普寂に禅と華厳教学を学ぶ。日本より入唐した僧栄叡・普照の要請により日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊那やベトナム出身の僧仏哲と来日。渡来後の道璿は、北宗禅を広めるため、大安寺に「禅院」を設置し、戒律では『梵網経疏』を撰する。また、天台宗にも精通していた。後に、吉野の比蘇山寺に入り、修禅に精励し、山岳修験者にも影響を与えたとされる。生誕 702年(長安2年)命日 760年5月7日(天平宝字4年4月18日)<< 戻る
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荷沢神会(かたくじんね)

中国唐の時代の禅僧。襄州襄陽県の出身。はじめ大通神秀(北宗)のもとで学び、後にその弟弟子の大鑑慧能(南宗)のもとで学ぶ。大鑑慧能が亡くなると、今度は南陽へと北上し、そこで北宗の僧らと論争を繰り広げ、神秀批判の論を展開した。弟子には南印がいる。諡は真宗大師。禅宗の中の荷沢宗の開祖。荷澤神會。著作『菩提達摩南宗定是非論』生誕 684年(嗣聖元年)命日 758年(乾元元年)<< 戻る
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橘諸兄(たちばなのもろえ)

奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。生誕 天武天皇13年(684年)命日 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日)<< 戻る