私は師匠が住職を務めるお寺で手伝い出したのは1993年からで、得度、学生時代を経て、そのお寺では2006年に副住職になり、2007年に下山しています。その間、住職の下で働いていました。
途中、大本山での修行が1年間あり、日給200円、半年経つと300円になりました。「給料ちゃうやん」と思われるかもしれませんが、通帳には1ヶ月分の6000円ほどが「給料」の名目で振り込まれていました。現在は修行も働くということのようです。

そこから師匠のお寺に戻ると月給制度で働きました。1か月間で8万円でした。天引きがないので、そこから奨学金を毎月3万円返済し、税金を払い、年金を払い、健康保険料を払い、電話代を払い、日用品の購入などでほぼ無くなるか、足りないくらいだったと思います。
ただし、住み込みだったので、住居費や光熱費はかかりませんが、自動的に24時間勤務となりました。副住職になってからは12万円でした。他の寺院の話を聞くと、このような極端な条件で働いていないようで、大抵は親子だから良い条件で暮らしているようでした。
もしくは、他所で働ける自由がある。兼業ができる範囲でお寺の活動を行う寺院が多いようで、私の場合は違いましたね。ただ、途中から師匠が代表を務めるボランティア団体での活動にも参加しましたが、事実上、お寺の仕事の一部でした。
これは極端な例だと思いますが、年間1000万円の収入があるお寺でも、365日24時間働く弟子(副住職)にはこれくらいを出すのが精いっぱいだったのでしょう。お寺で働くということは経済的には厳しいぞというのが師匠の教えでした。

しかし、お金で仕事を選ぶことはこれまで一度もしたことがありません。自分が預かったお金には働いてもらいます。お金は単なる物だと言う人もいますが、違うと思います。自分の意志を持って使い、自分の分身として、世の中に働きかけることができます。
私の人生において、みんな様々な役割を全うしています。お互いに、お互いの人生において働きかけ、働きかけられ、役割を全うしています。これは人間だけではなく、生命すべてがそうです。仏教で言うところの縁です。
仏教には仏様の仏像、仏画など、分身が多くいます。様々な場所に登場して、人々の支えとなっているのですが、それは、単なる物ではなく働きかける、働きかけられる力があるのだと思います。
その力を象徴した仏様の代表として、千手観音があります。造形からして千の手を持つのですが、これは誰にでも対応できる力を表しているのでしょう。ある時はこのような働きかけができる、またこんな時には違う働きができるといった具合です。
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この働きかけというのは、お金がなければ出来ないというものではありません。話を聞くだけでも、微笑むだけでも、そばにいるだけでも、心の支えとして働きかけられたと受け取る人は時と場合によるかもしれませんが、多かれ少なかれいると思います。
仕事もそうです。その現場に立つ役割を与えられたなら、自分の役割の前後にはどんな仕事をしているのかな、前の人から仕事を受け継ぐ時にはこう働きかけた方が良いな、次の仕事の人に渡す時にはああ働きかけた方が良いな、そうすれば自分の役割は働きやすく循環するな、というように現場を理解することが重要です。
理解するには学び、経験し、改善し、面倒なこともあるかもしれませんが、自分が働きかけなければ何も始まりません。それを省略してお金で解決できるのでしょうか?私は出来ないと思います。
お金は一つの基準値となりますが、不公平で、不満を生み、プラスにも、マイナスにも際限がないので、一向に満たされません。また、数値で比較しやすいため、1億円持っていたとしても、ライバルが2億円持っていたら、そこに満たされないものが生まれるのです。
お金とは言い換えると「欲」です。欲は大きくなりすぎると判断や働きかけを鈍らせます。それは、まるで欲からの働きかけが強くなった人となります。つまり、主人公があなたではなく、欲が主人公で、その欲に働かされる人となってしまいます。
あなたの働きかけが上手くいくことを祈っています。
