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七覚支(しちかくし)

七覚支とは、悟りを得るために役立つ7つの事柄を示しています。「七等覚支」(しちとうがくし)、「七菩提分」(しちぼだいぶん)ともいいます。①択法(ちゃくほう) 教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てること。②精進(しょうじん) 一心に努力すること。③喜(き) 真実の教えを実行する喜びを感じること。④軽安(きょうあん) 身心からを軽やかに快適にすること。⑤捨(しゃ) 対象への捕ら我を捨てること。⑥定(じょう) 心を集中して乱さないこと。⑦念(ねん) その時その時の思いを穏やかにすること。<< 戻る
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初転法輪(しょてんぼうりん)

初転法輪とは、仏(ブッダ)が成道後、はじめて教えを説いた時のことをいいます。その場所は、インドのバラナシ(ベナレス)の北方約10kmに位置するサールナートの鹿野苑で、その教えを聞いたのは五比丘だと伝えられています。また、仏が説法することを転法輪といいます。ブッダはブッダガヤでの成道後、最初に法を説く相手として、ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)で共に6年間の修行を行なった五比丘のいる鹿野苑を訪れました。当初、五比丘は、修行を捨てたブッダが遠くから来るのを見て、軽蔑の念をも抱き歓迎を拒みましたが、ブッダの堂々とした姿を見て畏敬の念を抱いたことから、自然と座に迎えたといわれます。ブッダ自らが阿羅漢で...
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四諦/四聖諦(したい/ししょうたい)

四諦とはブッダの説いた4つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」のことです。この四諦において、生きていることは「苦」であるという考えを具体的に示し、「苦」からの解放を説いています。「四諦」の「諦」という字の語源は「道理を明らかにする」という意味であって、「真理」や「悟り」を表しています。四聖諦ともいいます。ブッダの初転法輪(最初の説法)はベナレス(バラナシ)の近郊にある鹿野苑(ろくやおん:サールナート)で五比丘(5人の修行の仲間)に4つの聖なる真実、つまり四諦を説いたと伝えられています。「苦諦」(くたい)は、苦しみの真理のことで、この世は苦しみであるということ。生・老・病・死の四苦と、愛別離苦...
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空(くう)

空とは、膨れ上がって中がうつろであるという前提があり、転じて、無い、欠けたという意味を持ちます。また、インド数学では0(零)を指す言葉です。諸々の物事は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということです。つまり、固定的実体がないということを因果関係の側面からとらえた縁起と同様なことを意味します。空を「何も存在しないこと」と誤って理解してはいけません。また、三解脱門の1つに数えられます。梵語(サンスクリット語) śūnya シューニャ、 śūnyatā シューニャター巴語(パーリ語) suññatā スンニャター初期仏教・「諸々の生存状態の内に堅固なものを見いださない」(スッタニパー...
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修行者(しゅぎょうしゃ)- 比丘

修行者は巴語で bhikkhu といい、「乞う者」を意味します。漢訳では「比丘」と音写します。お釈迦様の存命した当時、インドの諸宗教では家を出た全ての修行者は托鉢によって食べ物を得ていたので「乞う者」といいます。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食べ物を捧げますが、修行者は平然とこれを受け、挨拶やお礼を返さないのが作法です。出家者、修行僧ともいいます。また、女性の修行者のことを「比丘尼」といいます。<< 戻る
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此岸(しがん)

此岸とは、迷いの世界、生死の世界のことです。完全な理想の境地の彼岸に対して、このようにいわれます。梵語(サンスクリット語) 巴語(パーリ語) apāra・「彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、彼を我はバラモンと呼ぶ。」(ダンマパダ 385偈)<< 戻る
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ジャンボ鶴田(ジャンボつるた)

プロレスラー、スポーツ科学研究者。本名及び旧リングネーム:鶴田 友美。 全日本プロレスで活躍した。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者。生誕 1951年3月25日命日 2000年5月13日大勝院光岳常照居士<< 戻る
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塩沢兼人(しおざわかねと)

声優、俳優。『機動戦士ガンダム』のマ・クベ役、『うる星やつら 完結篇』、『1ポンドの福音』、『らんま1/2 中国寝崑崙大決戦! 掟やぶりの激闘篇!!』などの声優。生誕 1954年1月28日命日 2000年5月10日碧海院法優日敏信士<< 戻る
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商量(しょうりょう)

商量とは、商も量もはかるという意味で、商人が物品を売買する時にその値をはかり合って決めることです。そのことから、よくはかり考えることという意味で使われます。師家と修行者、あるいは修行者の間で、問答往来して審議、相談、議論することです。・「次に諸の知事、庫堂に在って商量すらく、明日なんの味を喫し、なんの菜を喫し、なんの粥等を設くと。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)・「これすなはち正業道支なり。あやまりて仏法の商量すれば、眉鬚墮落し、面目破顔するなり。」(「正法眼蔵」三十七品菩提分法)<< 戻る
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止観(しかん)

止観とは、止めて観ることで、心を練って一切の外境や乱想に動かされず、心を特定の対象にそそいで心の働きを静めるのを「止」といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を如実に観るのを「観」といいます。互いに他を成立させ、仏道を全うさせる不離の関係にあります。・「バラモンが二つの事柄(止と観)について彼岸に達した(完全になった)ならば、彼はよく知る人であるので、彼の束縛は全て消え失せるであろう。」(ダンマパダ 384偈)<< 戻る
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常住物(じょうじゅうもつ)

常住物とは、寺に住む僧が勝手に私有したり売却してはならない共有物で、長く寺に備えて僧の受用に供すべきもの。・「また大宋宏智禅師の会下、天童は常住物千人の用途なり。然れば、堂中七百人、堂外三百人にて千人につもる常住物なるによりて、長老の住したる間、諸方の僧雲集して堂中千人なり。」(『正法眼蔵随聞記』41、故僧正云く、衆各用いる所の衣粮等)・「況んや学仏道の人には、施主の供養あり、常の乞食に比すべからず。常住物これあり、私の営みにもあらず。」(『正法眼蔵随聞記』3、学道の人、衣食を貪る事なかれ)<< 戻る
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衆僧(しゅそう)

衆僧とは、修行道場における一般の修行僧のことです。多くの修行僧のことで、大衆ともいいます。5人もしくは5人以上の比丘が和合しているのを梵語(サンスクリット語)のsamgha、もしくは、巴語(パーリ語)のSangha(サンガ)を音写して「僧伽」といい、漢訳で「衆」といいます。衆僧という言葉はその音写と意訳とを重ねた語ということが分かります。・「人天の導師、莆菜の化益を為すべき者なり。又た衆僧の得失を見るべからず、衆僧の老少を顧みるべからず。」(『典座教訓』14、修行は日々の足下にある)・「見在大宋国の寺院に、比丘尼の掛搭せるが、もし得法の声あれば、官家より尼寺の住持に補すべき詔をたまふには、即寺...
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ジャイアント馬場(ジャイアントばば)

プロレスラー、プロ野球選手、テレビタレント、三条市名誉市民。 本名・旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平(ばば しょうへい)。生誕 1938年1月23日命日 1999年1月31日顕峰院法正日剛大居士<< 戻る
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司馬遼太郎(しば りょうたろう)

小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼に及ばざる日本の者」から来ている。 大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。生誕 1923年(大正12年)8月7日命日 1996年(平成8年)2月12日遼望院釋浄定<< 戻る
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城達也(じょうたつや)

声優、俳優、ナレーター。劇団東京、タレント・エージェントを経て、東京俳優生活協同組合に所属し、在籍中は専務理事を務めた。FMラジオ局で放送されたイージーリスニングの音楽番組である『JET STREAM』(ジェット・ストリーム)でフランク・プゥルセル楽団の「ミスター・ロンリー」が始まると、「遠い地平線が消えて・・・」と印象的なナレーションの数々で有名で、「ローマの休日」など数多くの映画で世界的に人気を誇った名優グレゴリー・ペックの吹き替えでも有名です。生誕 1931年12月13日命日 1995年2月25日<< 戻る
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下村寅太郎(しもむらとらたろう)

哲学者・科学史家。『ライプニッツ』(弘文堂、1938年)、『自然哲学』(弘文堂、1939年)、『科学史の哲学』(弘文堂、1941年)、『無限論の形成と構造』(弘文堂、1944年)、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(勁草書房)、『西田幾多郎 人と思想』(東海大学出版会)、『ルネッサンスの芸術家』(筑摩書房、1969年)生誕 1902年(明治35年)8月17日命日 1995年(平成7年)1月22日<< 戻る
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昭和天皇(しょうわてんのう)

第124代天皇(在位:1926年(大正15年/昭和元年)12月25日 - 1989年(昭和64年)1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹。 1921年11月25日から1926年12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。生誕 1901年(明治34年)4月29日命日 1989年(昭和64年)1月7日<< 戻る
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ジョン・レノン

イギリス出身のシンガーソングライター・ギタリスト。ビートルズにおいてボーカル・ギターなどを担当しレノン=マッカートニー名義で作詞作曲をした。ビートルズ解散後はソロとして主に小野洋子と活動した。ビートルズを立ち上げたリーダーであるほか、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、多くの楽曲を製作しメイン・ヴォーカルを務めた。1970年のビートルズ解散後はアメリカをおもな活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家の小野洋子と共に平和運動家としても活動した。1975年から約5年間音楽活動を休止したあと1980年に活動を再開するも、同年12月8日23時ごろ(米...
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東海林太郎(しょうじたろう)

歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌うという特徴があった。1965年、紫綬褒章受章。生誕 1898年(明治31年)12月11日命日 1972年(昭和47年)10月4日聲楽院釋太朗大居士<< 戻る
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ジグミ・ドルジ・ワンチュク – 第3代ブータン国王

ジグミ・ドルジ・ワンチュクは、第3代ブータン国王。第3代国王の20年の統治期は、近代国家としてのブータンの国際社会への出現に象徴される変革の歴史である。従来の鎖国政策を取りやめ、政治的統一、宗教的・社会的基盤の強化、経済発展などの実績から、「近代ブータンの父」と呼ばれ、現在でも国民の敬愛を受けている。外交面では、本格的な国際社会への参加を意味する国際連合加盟を果たした。ブータンの国際社会参加は1962年のコロンボ計画参加に始まる。1970年にインドの後押しを受け、国際連合加盟を申請。1971年7月21日正式に国際連合への加盟が承認された。ブータン古来の伝統文化を尊重し、ゾンカ語を国語に制定し、...
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志賀直哉(しがなおや)

明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。生誕 1883年(明治16年)2月20日命日 1971年(昭和46年)10月21日<< 戻る
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正力松太郎(しょうりきまつたろう)

内務官僚、警察官、実業家、政治家。 読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ会長、日本武道館会長等を歴任。また、読売ジャイアンツ創立者であり初代オーナー。 位階勲等は従二位勲一等。富山県高岡市の名誉市民であり、京成電鉄OBでもある。読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。1885年(明治18年)4月11日、富山県射水郡枇杷首村(後の大門町、射水市)に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生ま...
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志賀潔(しがきよし)

医学者・細菌学者である。 赤痢菌の発見者として知られ、朝鮮総督府医院長、京城医学専門学校校長、京城帝国大学総長などを歴任した。生誕 1871年2月7日(明治3年12月18日)命日 1957年(昭和32年)1月25日<< 戻る
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白井松次郎(しらいまつじろう)

松竹の創業者の一人(松竹株式会社社長)。興行師、劇場経営者として活躍し、旧態依然たる明治の興行界に近代的なシステムを導入したことで知られる。生誕 1877年12月13日命日 1951年1月23日<< 戻る
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法隆寺は聖徳宗に

第2次大戦後の1950年、法隆寺は聖徳宗を名乗って法相宗から離脱した。<< 戻る
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島崎藤村(しまざきとうそん)

詩人、小説家。本名は島崎 春樹。信州木曾の中山道馬籠生まれ。 『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。生誕 1872年3月25日〈明治5年2月17日〉命日 1943年〈昭和18年〉8月22日文樹院静屋藤村居士<< 戻る
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渋沢栄一(しぶさわえいいち)

武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。日本の近代資本主義の父。江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な500もの会社の設立・経営に関わる。生誕 天保11年2月13日〈1840年3月16日〉命日 昭和6年〈1931年〉11月11日泰徳院殿仁智義譲青淵大居士<< 戻る
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ジョン万次郎(ジョンまんじろう)- 中浜万次郎

江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マンという愛称でも呼ばれた。土佐国出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎を名乗った。天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった...
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清水次郎長(しみずのじろちょう)

幕末・明治の侠客、博徒。本名、山本 長五郎。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 生誕 文政3年1月1日(1820年2月14日)命日 明治26年(1893年)6月12日碩量軒雄山義海居士<< 戻る
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『修証義』(しゅしょうぎ)

『修証義』(しゅしょうぎ)は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文言を抜き出して編集されたものです(どの部分から抜き出されたか詳しく知りたい方は ▶ 『修証義』(しゅしょうぎ)『正法眼蔵』対応版へ)。明冶時代の中ごろ、各宗派では時代に適応した布教のあり方を考える流れがありました。曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加しました。そのメンバーであった大内青巒(おおうちせいらん)を中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行されました。これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永...
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島津久光(しまづひさみつ)

江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。 位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。生誕 文化14年10月24日(1817年12月...
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神仏分離令、廃仏毀釈(しんぶつぶんりれい、はいぶつきしゃく)

1868(明治元)年3月、祭政一致の制を復活。政府は神仏分離令出す。廃仏毀釈によって、寺院仏像などの破却・焼打が各地で起こる。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はゆきすぎた仏教廃止運動でした。明治維新の復古思想から神道を国教とする考えがあり、神仏分離令がだされ、神社から仏教的なものがのぞかれました。神官を先頭とする群衆が寺をおそって仏像や仏具を焼いてしまいました。奈良の興福寺の五重塔は、わずか25円(一説には250円)で売りにだされたといいます。<< 戻る