『選択本願念仏集』源空集 に云わく、「南無阿弥陀仏 往生の業は、念仏を本とす。」と。
又云わく(選択集)、「夫れ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、且く聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正・雑二行の中に、且く諸の雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正・助二業の中に、猶、助業を傍らにして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは即ち是れ仏の名を称するなり。称名は必ず生を得。仏の本願に依るが故に」と。已上
明らかに知りぬ。是れ凡聖自力の行に非ず。故に「不回向の行」と名づくるなり。大小聖人、重軽悪人、皆同じく斉しく選択大宝海に帰して念仏成仏すべし。
是を以て『論註』に曰わく、「彼の安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生する所に非ざること莫し。同一に念仏して別の道無きが故に」とのたまえり。已上
爾れば、真実の行信を獲れば、心に歓喜多きが故に、是れを「歓喜地」と名づく。是れを初果に喩うることは、初果の聖者、尚睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。何に況んや、十方群生海、斯の行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。故に「阿弥陀仏」と名づけたてまつると。是れを「他力」と曰う。
是を以て、龍樹大士は「即時入必定」(易行品)と曰えり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註)と云えり。仰いで斯れを憑むべし、専ら斯れを行ずべきなり。
良に知りぬ。徳号の慈父無さずは、能生の因闕けなん。光明の悲母無さずは、所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしと雖も、信心の業識に非ずは、光明土に到ること無し。真実信の業識、斯れ則ち内因とす。光明名の父母、斯れ則ち外縁とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す。
故に宗師(善導)は「光明名号を以て十方を摂化したまう。但、信心をして求念せしむ」(往生礼讃)と言えり。
又「念仏成仏是れ真宗」(五会法事讃)と云えり。
又「真宗、遇い叵し」(散善義)と云えるをや。知るべしと。
凡そ往相回向の行信に就いて、行に則ち一念有り、亦信に一念有り。「行の一念」と言うは、謂わく、称名の遍数に就いて選択易行の至極を顕開す。
故に『大本』(大経)に言わく、「仏、弥勒に語りたまわく、「其れ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこと有らん。当に知るべし。此の人は大利を得とす。則ち是れ無上の功徳を具足するなり」と。」已上
光明寺の和尚(善導)は、「下至一念」(散善義)と云えり。又「一声・一念」(往生礼讃)と云えり。又「専心・専念」(散善義)と云えりと。已上
智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻に云わく、「深心は即ち是れ真実の信心なり。自身は是れ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心有ること無し。故に「深心」(観経)と名づく」と。已上
『経』(大経)に「乃至」と言い、『釈』(散善義)に「下至」と曰えり。「乃」・「下」、其の言異なりと雖も、其の意、惟れ一なり。復た「乃至」とは一多包容の
漢文
凡就往相回向行信、行則有一念、亦信有一念。言行之一念者、謂就称名遍数顕開選択易行至極。
『経』言「乃至、」『釈』曰「下至。」乃・下、其言雖異、其言なり。
「大利」と言うは小利に対せるの言なり。「無上」と言うは有上に対せるの言なり。
信に知りぬ。大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上は則ち是れ八万四千の仮門なり。
『釈』(散善義)に「専心」と云えるは即ち一心なり。二心無きことを形すなり。「専念」と云えるは即ち一行なり。二行無きことを形すなり。
今、弥勒付嘱の一念は即ち是れ一声なり。一声即ち是れ一念なり。一念即ち是れ一行なり。一行即ち是れ正行なり。正行即ち是れ正業なり。正業即ち是れ正念なり。正念即ち是れ念仏なり。則ち是れ南無阿弥陀仏なり。
爾れば、大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す。普賢の徳に遵うなり。知るべしと。
(「行巻」続く)
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