真言宗の出来事

便り

金胎寺-富山県射水市

・金胎寺 高野山真言宗 富山県射水市戸破3315護国山金胎寺は文応元年(1260)頃、高野山大楽院信顕阿闍梨が北陸巡業の折、越中に滞在し、当地に金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を安置し、加茂社の神宮寺として草創されました。本堂の天井中央には、周囲に菊華紋をあしらった、墨絵の竜眼図が描かれています。この寺は北陸で一番最初に前田利家の兄である前田安勝公により西国三十三観音に習い越中一国三十三観音の十五番札所(本尊秘仏千手千眼観音菩薩像)に定められた寺でもあります。(リンク先より) << 戻る
便り

道仙寺-岡山県美作市

・道仙寺 真言宗醍醐派 岡山県美作市後山59岡山県下一の高峰、奈良の大峯山と並ぶ修験道の行場として知られる霊山後山。7世紀頃、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ、役の小角)が後山に入り、修験道の道を開いたとする説が残されています。建長年間(1249~1255年)に僧徹雲法印が延命山道仙寺を建立すると、霊山後山の修験道は次第に発展していき、15世紀になると多くの山伏が修行に訪れるようになりました。(リンク先より) << 戻る
便り

家原寺-大阪府堺市西区

・家原寺 高野山真言宗 大阪府堺市西区家原寺町1-8-22「智恵の文殊さん」として知られ、別名「落書き寺」としても有名。行基菩薩が誕生した所で、行基37歳の時(慶雲元年)「もとの生家を掃き清めて仏閣となす」と「行基年譜」に記される。行基建立寺院の第一号であるが、いわゆる行基建立四十九院には含まれず、特別扱いされている。叡尊が寛元三年(1245)再興し、行覚が正和五年(1316)菅原寺(大和)の本記をもとに「行基菩薩行状絵伝」(絹本着色、三幅、重要文化財)を描かせて行基を顕彰し行基信仰を推進した。(リンク先より) << 戻る
年表

竜本山 松井田院 不動寺 開山

寛元元年(1243年) 慈猛上人によって開山。御本尊 千手観音。<< 戻る
便り

阿弥陀寺-愛知県稲沢市

・阿弥陀寺 真宗大谷派 愛知県稲沢市下津町東下町66阿弥陀寺は1239(延応元)年に真言宗の寺院として創建され、戦国時代初期の文明年間(1469~87年)に蓮如上人が訪れたのを契機として浄土真宗に改宗しました。(リンク先より) << 戻る
便り

護村寺-新潟県佐渡市

・護村寺 単立(真言宗) 新潟県佐渡市新穂北方597番地当山は北方地頭 本間六郎満繁一族の菩提寺であり、順徳上皇佐渡配流の際、池蔵人の発願に依り、比叡山坂本の山王権現を勧請され十二坊の一坊として天福年間に明王院として建立され、副別当職であった。昭和17年4月護村寺と改名しております。(リンク先より)※天福年間 1233年から1234年 << 戻る
便り

管明寺-新潟県佐渡市

・管明寺 真言宗智山派 新潟県佐渡市上新穂659佐渡に流された順徳上皇の御安泰祈願のため、池蔵人の発願に依り、比叡山坂本の山王権現を勧請され十二坊を建立されました。この十二坊とは乗光坊、弥勒坊、曼荼羅寺、宝蔵寺、儀乗坊、三諦坊、金剛院、宝性院、円通寺・明王院・善意寺・万福寺で、日吉神社別当の新延寺(別当というのは室町時代までの大社に多くみられ、お宮の会計経理を行うお寺)の下の衆徒寺のことです。管明寺は、十二坊の三坊として天福元年に建設され、その後明治15年弥勒坊と乗光坊が合併、さらに昭和11年成就山乗光坊と管明山三諦坊が合併し、成就山管明寺と公称し現在に至っています。(リンク先より)※天福元年...
便り

東海寺-栃木県宇都宮市

・東海寺 真言宗智山派 栃木県宇都宮市篠井町827鎌倉時代の寛喜二年(1230年)小山城主朝比奈兼秀の孫和田新兵衛朝盛が出家し円覚に改め寺を開創した。(リンク先より) << 戻る
便り

大報恩寺-京都府京都市上京区

・千本釈迦堂 大報恩寺 真言宗智山派 京都府京都市上京区五辻通六軒町西入溝前町鎌倉初期安貞元年(1227)義空上人によって開創された寺です。本堂は創建時そのままのものであり、応仁・文明の乱にも両陣営から手厚き保護を受け、奇跡的にも災火をまぬがれた京洛最古の建造物として国宝に指定されています。義空上人は、藤原秀衡の孫にあたり、19才で比叡山澄憲僧都に師事、拾数年ののちこの千本の地を得て、苦難の末本堂をはじめ諸伽藍を建立しました。(リンク先より) << 戻る
年表

北条政子、金剛三昧院に多宝塔を寄進

貞応二年(1223年)、北条政子が源頼朝のために、金剛三昧院に多宝塔(現存・国宝)を寄進する。<< 戻る
便り

東昌寺-神奈川県逗子市

・青龍山 東昌寺 高野山真言宗 神奈川県逗子市池子2-8-33東昌寺は、鎌倉時代に北条泰時により執権家歴代の菩提寺として鎌倉の西ケ谷(鎌倉市小町)に建立された東勝寺に由来すると伝えられています。東昌寺は、当時、青龍山東勝寺と呼ばれていました。一方、後に東昌寺の境内に移されることになった丈六阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂が、承久2年(1221年)に池子の大上阿弥陀ヶ谷(おおがみあみだがや: 現在の県立逗子高校の奥)に建立されました。この阿弥陀堂は、源実朝の非業の死を弔うために母親の政子刀自(とじ: 年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語)が、仏師・運慶に依頼して丈六阿弥陀如来像を彫らせ祀ったと伝えられていま...
便り

成就院-神奈川県鎌倉市

・鎌倉 成就院 公式ホームページ 真言宗大覚寺派 神奈川県鎌倉市極楽寺1-1-5護摩修法が行われていたこの地に、鎌倉幕府<三代執権北条泰時>が<1219年>成就院を建立。 1333年新田義貞の鎌倉攻めで焼失し西ヶ谷に移ったが、1688年元禄元年江戸時代ににより元の地に再建され、現在に至る。(リンク先より) << 戻る
便り

総徳寺-栃木県那須郡

・昇覚院総徳寺 真言宗智山派 栃木県那須郡那珂川町大山田下郷1724真言宗智山派み属し、寶珠山 曻覺院 總徳寺という。本尊は不動明王を安置し鎌倉仏師運慶の作と伝えられる。1217 (健保5)年 光寶上人により開基。醍醐無量寿院の直末となる。八溝山周囲三県に渡り、末寺二十八ヶ寺を有す。江戸時代 水戸領となり、光圀公の時代寺社改革のため多数の寺が破却されるも存続を許される。(リンク先より) << 戻る
便り

浄光寺-新潟県新潟市中央区

・浄光寺 浄土真宗本願寺派 新潟県新潟市中央区西堀通10-1618弘法大師創立の真言宗の放光院であった1212年、住職・印信の時、御流罪の親鸞聖人が一夜宿を請われる。法論の末、「浄土の教えが真言の教えよりも優れていれば、この竹杖より逆竹が生ず」と言い残すと、後日竹杖より逆竹が生じ、印信は常聞房法爾と、放光院を鳥屋野院と改名しお弟子となる。順徳天皇北狩の折ご来寺。住職・法爾の法話に感激して御念持仏を御寄進賜り、勅命を下し寺号を「金波山鳥屋野院浄光寺」と改名す。(リンク先より) << 戻る
便り

蓮花院-埼玉県入間市

・蓮花院 妙智寺 【公式】 真言宗智山派 埼玉県入間市春日町2-9-1蓮花院は、世音山蓮花院妙智寺といい、真言宗智山派に属します。本尊は大聖不動明王ですが、武蔵野三十三観音霊場十八番札所本尊である、千手千眼観世音菩薩(通称は黒須観音)が特に有名です。境内には指定文化財の観音堂のほかに、位牌堂、大師堂、弁天堂、鐘楼、山門、庫裏等があります。建長元年(1201年)、歌人としても知られた寂蓮法師により開かれたといわれております。(リンク先より) << 戻る
年表

不動堂建立

建久九年(1198年)、行勝上人、一心谷に不動堂(現存)を建立。<< 戻る
便り

鑁阿寺-栃木県足利市

・鑁阿寺 真言宗大日派 栃木県足利市家富町2220鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。(リンク先より) << 戻る
便り

新大佛寺-三重県伊賀市

・新大佛寺 真言宗智山派 三重県伊賀市富永1238新大佛寺は、今から約800年前(1196年)後鳥羽法皇の勅願により、源頼朝公の協力を得て、国家の安泰と国民の幸せを祈る、一大祈願道場として又、東大寺伊賀別所として建立されました。ご本尊様は、快慶作の高さ約5メートル木彫大仏様(重要文化財)で、最初の上人様は俊乗房重源と申し、奈良東大寺を復興された上人様です。このことから、東大寺に敬意をはらって、寺号に「新」を加え、新大佛寺と名づけられました。(リンク先より) << 戻る
便り

宝善院-神奈川県平塚市

・宝善院 東寺真言宗 神奈川県平塚市平塚1-23-16建久三年、鎌倉八幡宮寺(今の鎌倉八幡宮:明治維新までは関東地方屈指の真言系巨大寺院であった)に下向した京都・東寺の学問僧によって開山されました。源実朝公の妻の念持仏と伝えられる、京都より請來の不動明王です。(リンク先より)※建久三年 1192年 << 戻る
便り

遍照寺-山形県長井市

・遍照寺 真言宗豊山派 山形県長井市横町14-8金剛山遍照寺は、8世紀中頃に行基菩薩が開いたと伝えられています。文治の乱(1189年)の時、中尊寺の祥乗が戦乱をさけて遍照寺に入ったといい、「奥の高野」とも呼ばれた古刹です。(リンク先より) << 戻る
便り

龍寶寺-宮城県仙台市青葉区

・龍寶寺 真言宗御室派 宮城県仙台市青葉区八幡4-8-32文治年間(1186年)伊達家の初代朝宗公(ともむねこう)が、伊達家の祈願寺(きがんじ)として開かれたお寺です。龍寶寺は、常陸の国より 福島県 梁川、山形県 米沢、宮城県 岩出山と、伊達家と共に移動し、慶長3年(1598年)頃、初代仙台藩主伊達政宗公(まさむねこう)の仙台築城に伴って現在の地に移されました。 藩政時代は城下最大の門前町を与えられ、龍寶寺に属していた寺院は約70ヶ寺という大寺院でありました。(リンク先より) << 戻る
年表

平家の落武者や、没落した貴族が高野山に

文治二年(1186年)、この頃から平家の落武者や、没落した貴族が高野山に逃れてくる。また、この頃から高野聖らの唱導によって高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。<< 戻る
便り

龍華寺-神奈川県横浜市金沢区

・知足山 龍華寺 真言宗御室派 神奈川県横浜市金沢区洲崎町9-31鎌倉の外港として栄えた武州金沢に整然とたたずむ古刹「龍華寺(りゅうげじ)」。寺のおこりは、文治年中(1185~1190)に源頼朝が六浦山中に創建した浄願寺で、明応8年(1499)に融弁上人によって現在の地にあった光徳寺と併合され、移築されました。(リンク先より) << 戻る
便り

放光寺-山梨県甲州市

・放光寺 真言宗智山派 山梨県甲州市塩山藤木2438元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立しています。義定は平家追討の功によって遠江国守に任命されて、のちに遠江国守護、禁裏守護など勤め鎌倉幕府創業に貢献しておりますが建久5年(1194)8月19日梶原氏らの謀反の嫌疑を受け当山において自刃したと伝えています。(リンク先より) << 戻る
人物

俊寛(しゅんかん)

平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局。姉妹に大納言局。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。安元3年(1177年)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし、『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流された。(鹿ケ谷の陰謀)生誕 康治2年(1143年)命日 治承3年3月2日(1179年4月10日)<< 戻る
便り

福應寺-長野県松本市

・福應寺 高野山真言宗 長野県松本市大字神林1747草創は、寺伝によれば承安3年(1173)にさかのぼる。即ちこの地の地頭であった平野刑部が、相州鎌倉より当地の守護神として、鶴岡八幡宮を勧請したとき、その本地である阿弥陀如来を安置する為に、別当寺として穂屋野山曼荼羅寺を建立したことに始まるという。曼荼羅寺は現在の福應寺の地より南にあり、寺中六坊を数えた繁栄の密場であった。(リンク先より) << 戻る
便り

平等寺-京都府京都市下京区

・平等寺 真言宗智山派 京都府京都市下京区松原通烏丸東入因幡堂町728承安元年(一一七一)には、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を贈られました。(リンク先より) << 戻る
便り

金剛寺-群馬県前橋市

・金剛寺 真言宗豊山派 群馬県前橋市苗ヶ島町1147開山は承安年間(1171~1175)赤城山大通庵に創建し、山号を霊松山、院号を歓喜院と号した。 次いで寺山と呼ばれる地に移り、慶長、元和の頃(1596~1624)第4世円義上人の代になり、現在地に建立されたと伝えられる。 宝暦年間火災の為灰燼に帰したが、7世智海阿闍梨和尚再建現堂宇は当時のものである。 創建時は京都醍醐寺派報恩院末寺であったが、明治になって奈良県長谷寺の末寺になった。(リンク先より) << 戻る
便り

法界寺-石川県小松市

・法界寺 浄土宗 石川県小松市東町92小松の内府と称された内大臣、平 重盛が、諸国に小松寺を建立し始めた、一一六七年、龍真法印鎮華院が開祖となり、真言宗新義派に属する小松寺を小寺に建てました。安元元年三月、法然上人(源空)が京都・吉水に浄土宗をお開きになるや直に改宗し、佛徳院 小松寺と号し、弘安年中には、北国鎮護安全の道場勅願所として定められました。天正五年、柴田勝家のため灰燼に帰し、後、小松山 佛徳院 法界寺と称しました。(リンク先より) << 戻る
便り

聖代寺-香川県高松市

・聖代寺 真言宗善通寺派 香川県高松市屋島東町1332僧西行(俗名 佐藤義清)は、その晩年かつて思いをはせた旧主家徳大寺家の姫君の忘形見、崇徳上皇の菩提を弔うため当地に一宇を建立されました。(崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃州に配流され1164年におかくれになられています。)(リンク先より) << 戻る
年表

平清盛が大塔再建に尽力する

保元元年(1156年)、平清盛が大塔再建に尽力する。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝えられます。<< 戻る
年表

大塔に落雷、御影堂を除き全焼

久安五年(1149年)、大塔に落雷、御影堂を除き全焼。久安六年(1150年)、金堂落慶。<< 戻る