仏教を本気で学ぶ

仏教用語/人物集 索引

このウェブサイトに出てくる仏教用語/人物を五十音順で探すことが出来ます。
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ブッダ最後の旅程

『ブッダ最後の旅』でお釈迦様がたどった地域をまとめました。ブッダ最後の旅程① 霊鷲山/王舎城(ラージャグリハ)の鷲の峰② アンバラッティカー園(庵婆蘗林/Ambalatthikā)③ ナーランダ/富商パーヴァーリカのマンゴー林④ パータリ村(現在のビハール州の州都パトナ)⑤ マガダ国の大臣スニーダとヴァッサカーラの住居⑥ ゴータマの渡し/ガンジス河を渡る⑦ コーティ村⑧ ナーディカ村⑨ ヴァイシャリ(商業都市)/アンバパーリのマンゴー林⑩ ベールヴァ村(雨期の定住)/発病⑪ チャーパーラ霊樹/大地震⑫ 大きな林にある重閣講堂(ヴァイシャリ近郊)⑬ バンダ村⑭ ハッティ村⑮ アンバ村⑯ ジャンブ...
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霊鷲山(りょうじゅせん)

霊鷲山とは、インド・ビハール州のラージギルから北東へ5キロ程のところにある小高い岩山です。この場所でブッダが弟子たちに多くの説法をしたところとして知られています。この岩山の頂上には大きな岩の説法台があり、現在もブッダの聖地として多くの巡礼者が訪れます。また、『法華経』や『観無量寿経』などの大乗経典の多くは霊鷲山で説いた教えであると伝えられています。梵語でグリドラクータ、巴語でギッジャクータといい、山頂が鷲の姿に見えることから、鷲の峰という意味で「霊鷲山」「鷲峰山」(じゅぶせん)と呼ばれます。略して、「霊山」(りょうぜん)ということも多いです。音訳では「耆闍崛山」(ぎしゃくっせん、ぎじゃくっせん...
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臨済宗各派15の本山(開派年代順)

建仁寺派 本山建仁寺(京都)建仁2(1202)年、南宋に留学して帰国した栄西禅師により始まる。臨済宗(黄龍派の禅)を日本にはじめて伝える。東福寺派 本山東福寺(京都)嘉禎2(1236)年、南宋に留学して帰国した円爾(弁円)禅師により始まる。楊岐派の禅(以下、同)。建長寺派 本山建長寺(鎌倉)建長5(1253)年、中国・宋から招かれた蘭渓道隆禅師により始まる。円覚寺派 本山円覚寺(鎌倉)弘安5(1282)年、中国・元から招かれた無学祖元禅師により始まる。南禅寺派 本山南禅寺(京都)正応4(1291)年、無関普門禅師により始まる。国泰寺派 本山国泰寺(富山高岡)正安2(1300)年頃、慈雲妙意禅師...
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那伽(ナーガ、龍神)

那伽とは、八部衆の一つ、また、四天王眷属の八部鬼衆の一つで、水属の王とされ、龍神、龍王という訳名があります。インド神話においてはナーガといい、蛇の精霊あるいは蛇神のことです。ブッダが悟りを開く時に守護したとされ、仏教に龍王として取り入れられて以来、守護神となっています。もともとコブラを神格化した蛇神でしたが、コブラの存在しない中国においては漢訳経典において「龍」と翻訳され、中国にもともとあった龍信仰と習合し、日本にもその形式で伝わっています。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。西方を守護する広目天の眷属です。<< 戻る
人物

離婆多(りはた/レーヴァタ)

離婆多はお釈迦様の弟子です。Revata-khadira-vaniya、レーヴァタ・キャディラ・ヴァニヤという呼び名は「キャデラ林に住するレーヴァタ」という意味です。音写では、離波多とも漢訳され、意訳として室星、室宿、仮和合などもあります。<< 戻る
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『伝光録』第十四祖。龍樹尊者。

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『伝光録』第四十二祖。梁山和尚。

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輪転(りんてん)

輪転とは、輪のようにまわること、ただよい巡ること、生死を繰り返すことです。輪廻と同じ意味で使われます。<< 戻る
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輪廻(りんね)

輪廻とは、インド古来の考え方では生ある者が生死を繰り返すことをいいます。衆生が迷いの世界に生まれかわり死にかわりして、車輪の巡るようにとどまることがないことです。果てしなく巡りさまようことを意味します。業による輪廻思想は古来からインド諸思想に影響を与えています。一方、梵語(サンスクリット語)やヒンディー語ではやや古い時代から現代まで、先の意味から派生的に「世の中」「世界」と用いられているため、漢訳仏典に「輪廻」とあるからと言って、全て「生まれ変わる」と置き換えていては意味がとれない場合があります。仏教で言われるところの輪廻は、迷いの世界のことで、三界(欲界・色界・無色界)・六道(地獄・餓鬼・畜...
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六道(ろくどう、りくどう)

六道とは、衆生が業(意志にもとづく生活行為)によって生死を繰り返す、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界、あるいは境涯、生存状態のことです。迷いの世界、流転の場所、六趣、六界ともいいます。また、六道よりも古い時代、修羅を地獄におさめる五道(ごどう)の考え方もありました。①天道(てんどう、天上道、天界道とも)②人間道(にんげんどう)③修羅道(しゅらどう)④畜生道(ちくしょうどう)⑤餓鬼道(がきどう)⑥地獄道(じごくどう)梵語(サンスクリット語) ṣaḍgati巴語(パーリ語) chagati<< 戻る
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ブッダ最後の旅【 第4章 】17、臨終の地を目指して – プックサとの邂逅

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ブッダ最後の旅【 第6章 】23、臨終のことば

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人物

力石徹(りきいしとおる)

漫画・アニメ作品「あしたのジョー」の登場人物で、主人公・矢吹丈の最大のライバル。 解説 あしたのジョーの登場人物。 主人公・矢吹丈と少年院で運命的な出会いを果たし、永遠のライバルとなる。生誕 命日 1970年3月24日功徹院清精道観居士<< 戻る
人物

力道山(りきどうざん)

プロレスラー、大相撲力士。17歳で大相撲二所ノ関部屋に入門する。関脇にまでなるが、27歳の時に自ら髷を落とし廃業後、プロレスに転進し、日本プロレスの基礎を築いた。生誕 1924年11月14日命日 1963年12月15日大光院力道日源居士<< 戻る
人物

良寛(りょうかん)

江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。本名は山本栄蔵。18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗海嶽山光照寺(出雲崎町尼瀬)にて修行をする。安永8年(1779年)22歳の時、備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い...
人物

隆光(りゅうこう)

江戸時代中期の新義真言宗の僧。出自は大和国の旧家河辺氏。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。生誕 慶安2年2月8日(1649年3月20日)命日 享保9年6月7日(1724年7月26日)<< 戻る
人物

了翁道覚(りょうおうどうかく)

江戸時代前期、教育文化、社会福祉、公共事業など各種の社会事業に貢献した黄檗宗の僧。出羽国雄勝郡八幡村生まれ。初め名を祖休といい、後に道覚とあらためた。号も初めは了然といい、後に了翁にあらためた。寛永20年(1643年)、了翁は陸奥国(後の陸中国)平泉の中尊寺(岩手県平泉町)を詣でたが、その際、多くの経典がすでに散逸してしまっていることを知った。特に藤原清衡奉納の宋版大蔵経の多くが失われていることを嘆き、近隣を探し回り、今日国宝の一部として知られる金銀交書(紺紙金銀交書大般若経)6巻を返納した。さらにこれ以後、散逸した経典や群書の蒐集と一切経蔵建立の運動に一生を捧げることを誓う。承応3年(165...
人物

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤、次いで隆信と改めた。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。生誕 享禄2年2月15日(1529年3月24日)命日 天正12年3月24日(1584年5月4日)雲院殿泰巌宗龍大居士<< 戻る
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日蓮聖人『立正安国論』を著す

文応元(1260)年5月26日、『立正安国論』を著す。1巻。日蓮が5代執権・北条時頼(ほうじょうときより)に献じたもので、法華経のみが正法(しょうぼう)であり、これを信仰して国をおさめ民衆を救済すべきことを警告し、これにより政治を行わないと天災地変がおこり、外国の侵略を受けると説といている。<< 戻る
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日蓮聖人 立教開宗

建長5(1253)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と、初めてお題目を唱え立教開宗宣言をしました。このとき32歳、同時に名を「日蓮」と改めました。<< 戻る
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「正法眼蔵」龍吟(りゅうぎん)

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立教開宗(浄土宗)

承安5(1175)年の春、法然上人は宇治で『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』と出会い、称名往生に関する確信を得て専修念仏に帰す。比叡山の西塔黒谷を出て西山広谷に移り、しばらくして東山大谷に住房をうつす。(後の知恩院)。浄土宗「立教開宗」の年と言われる。<< 戻る
人物

良忍(りょうにん)

良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍...
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良忍上人、念仏勧進を始める

ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿を現して良忍上人にいわれるには、 「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」 このお言葉によって布教の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”といい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてき...
人物

良源(りょうげん)- 元三大師

平安時代の天台宗の僧。 諡号は慈恵大師(じえだいし)。通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。 第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。生誕 延喜12年9月3日(912年10月15日)命日 永観3年1月3日(985年1月26日)<< 戻る
人物

梁山縁観(りょうざんえんかん)

中国・五代十国時代頃の禅僧。同安観志に就いて嗣法。弟子には大陽警玄、石門慧徹がいる。生誕 命日 << 戻る
人物

洞山良价(とうざんりょうかい)

中国唐代の禅僧。諡は悟本大師。俗姓は兪。越州諸曁県の出身。五家七宗の一つ、曹洞宗の開祖。雲巌曇晟に就いて嗣法。弟子には雲居道膺、曹山本寂など多数。筠州洞山(江西省宜春市宜豊県)を開き、門徒は500~1000人に達したという。著書に『宝鏡三昧』がある。悟本大師。洞山悟本大師。五台山の高僧である五洩霊黙のもとへ遣わされ、21歳のとき受戒した。後に南泉普願、潙山霊祐にも師事。最後に雲巌曇晟に就いて嗣法。生誕 元和2年(807年)命日 咸通10年3月8日(869年4月23日)<< 戻る
人物

臨済義玄(りんざいぎげん)

中国唐代の禅僧。諡は慧照禅師。曹州南華県の出身。黄檗希運に就いて嗣法。真定府臨済院。『臨済慧照禅師語録』黄檗三打の機縁で大悟する。・「慧照大師は、講経の家門をなげ捨てて、黄檗の門人となれり。黄檗の棒を喫すること三番、あはせて六十挂杖なり。大愚のところに参じて省悟せり。ちなみに鎭州臨済院に住せり。黄檗の心を究尽せずといへども、相承の仏法を臨済宗となづくべしといふ一句の道取なし、半句の道取なし。豎拳せず、拈払せず。」(「正法眼蔵」仏道)生誕 命日 咸通8年1月10日(867年2月18日)または、咸通7年4月10日(866年5月27日)<< 戻る
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龍潭崇信(りゅうたんすうしん)

中国唐代の禅僧。渚宮の出身。天皇道悟に就いて嗣法。弟子には徳山宣鑑がいる。生誕 命日 838年<< 戻る
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『理趣経』(りしゅきょう)

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鑑真が律宗を伝える

天平勝宝5年(753年)、鑑真(がんじん・688〜763年)が6度の航海の末に、唐から招来し、東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けました。後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いています。日本の留学僧の願いで日本への渡航を決意しましたが、5度心みて失敗しました。そのため盲目になりましたが意志をかえず、6度めにようやく目的をはたして来日しました。鑑真が伝えたのは「四分律」によるものでしたが、平安時代の最澄や空海はこれを支持せず、空海は「十誦律」を重んじました(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、空海は受戒につい...