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鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)

人類学者、考古学者、民族学者、民俗学者。『ある老学徒の手記』生誕 1870年5月4日(明治3年4月4日)命日 1953年(昭和28年)1月14日<< 戻る
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東郷平八郎(とうごうへいはちろう)

幕末から昭和時代初めの武士、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。 日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。生誕 弘化4年12月22日(1848年1月27日)命日 昭和9年(1934年)5月30日<< 戻る
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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4か月後に第15代将軍に就任。生誕 1837年10月28日〈天保8年9月29日〉命日 1913年〈大正2年〉11月22日<< 戻る
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徳川家茂(とくがわいえもち)

江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を受けて慶福と名乗っていた。 実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主であった。 徳川斉順の嫡男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院。御台所は孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に、大老で譜代筆頭の彦根藩主井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。生誕 弘化3年閏5月...
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徳川斉昭(とくがわなりあき)

江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)将軍徳川慶喜の実父である。藩政改革に成功した幕末期の名君の一人。しかし将軍継嗣争いで大老・井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。生誕 寛政12年3月11日(1800年4月4日)命日 万延元年8月15日(1860年9月29日)<< 戻る
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徳川家定(とくがわいえさだ)

江戸幕府の第13代征夷大将軍。第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第1...
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徳本行者(とくほんぎょうじゃ)

江戸時代後期の浄土宗の僧侶。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。紀伊国日高郡の出身。徳本上人とも呼ばれた。27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名...
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鳥居清長(とりいきよなが)

江戸時代の浮世絵師。鳥居派四代目当主。鳥居派の代表的な絵師。 鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍し、それらや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人。特に堂々たる八頭身の美人画で、今日世界的に高く評価されている。生誕 宝暦2年〈1752年〉命日 文化12年5月21日〈1815年6月28日〉長林英樹信士<< 戻る
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徳川家治(とくがわいえはる)

江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。生誕 元文2年5月22日(1737年6月20日)命日 天明6年8月25日(1786年9月17日)浚明院殿贈正一位大相国公<< 戻る
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徳川吉宗(とくがわよしむね)

江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康の曾孫に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。生誕 貞享元年10月21日(1684年11月27日)命日 寛延4年6月20日(1751年7月12日)有徳院殿贈正一位大相国<< 戻る
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徳川家宣(とくがわいえのぶ)

江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊。生誕 寛文2年4月25日(1662年6月11日)命日 正徳2年10月14日(1712年11月12日)文昭院殿贈正一位大相国公文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士<< 戻る
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徳川綱吉(とくがわつなよし)

上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代征夷大将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。「生類憐みの令」生誕 正保3年1月8日(1646年2月23日)命日 宝永6年1月10日(1709年2月19日)常憲院殿贈正一位大相国公<< 戻る
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徳川光圀(とくがわみつくに)

常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。生誕 寛永5年6月10日(1628年7月11日)命日 元禄13年12月6日(1701年1月14日)<< 戻る
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土佐光起(とさみつおき)

江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人。子は土佐光成、土佐光親。大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図な...
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徳川家光(とくがわいえみつ)

江戸幕府の3代将軍。2代将軍秀忠の次男である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。生誕 慶長9年7月17日(1604年8月12日)命日 慶安4年4月20日(1651年6月8日)大猷院殿贈正一位大相国公<< 戻る
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土井利勝(どいとしかつ)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将、譜代大名。江戸幕府の老中・大老。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った。生誕 元亀4年3月18日(1573年4月19日)命日 寛永21年7月10日(1644年8月12日)宝池院殿前拾遺穏誉泰翁覚玄大居士<< 戻る
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徳川秀忠(とくがわひでただ)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍(在職:1605年 - 1623年)。徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。秀忠が誕生してから5か月後に長兄・信康が切腹している。次兄である秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。生誕 天正7年4月7日(1579年5...
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徳川家康(とくがわいえやす)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人。安祥松平家9代当主で徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖。旧称は松平 元康。戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任せられ江戸幕府を開く。三英傑のひとり。家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していた。従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるが、天正16年(1588年...
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豊臣秀頼(とよとみひでより)

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男で庶子。 秀吉の側室であった茶々の第二子。子は側室・和期の方との間に国松と、小石の方との間に天秀尼。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局・正栄尼が伝わる。生誕 文禄2年8月3日(1593年8月29日)命日 慶長20年5月8日(1615年6月4日)帰寂山高陽寺殿秀山大居士<< 戻る
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土佐光吉(とさみつよし)

室町時代から安土桃山時代の大和絵土佐派の絵師。子に土佐光則。住吉如慶は子とされることもあるが、弟子説が有力。官位は従五位下・左近衛将監。「源氏物語図屏風」「関ヶ原合戦図屏風」など多数。生誕 1539年(天文11年)命日 1613年6月22日(慶長18年5月5日)<< 戻る
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豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉、または、羽柴秀吉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされている。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、従来にはない斬新な奇策や政策で次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争...
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豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に...
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松平信康(まつだいらのぶやす)- 徳川信康(とくがわのぶやす)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男。母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる。天正元年(1573年)に初陣する。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し、その後も武田氏との戦いでいくつもの...
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桃源瑞仙(とうげんずいせん)

室町時代の臨済宗の僧。京都相国寺の第 80世。著作『百衲襖』『史記抄』『蕉雨稿』。生誕 永享2(1430)年6月17日命日 延徳元(1489)年10月28日<< 戻る
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富樫政親(とがしまさちか)- 加賀一向一揆

富樫政親とは、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。長禄2年(1458年)、加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、富樫政親は家臣団に擁されて奪回に尽力しました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍につきました。ところが、弟・幸千代が山名宗全方である西軍について敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争うことになります。文明5年(1473年)、真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ弟・幸千代に富樫政親は敗れて加賀を追われます。しかし、浄土真宗本願寺派門徒などの援助・加賀国内における武士団の支持を得て、弟・幸千代を加賀から追い出し再び当...
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「正法眼蔵」道得(どうて)

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東福寺派(本山東福寺(京都))の開派

嘉禎2(1236)年、南宋に留学して帰国した円爾(弁円)禅師により始まる。臨済宗(楊岐派の禅)を日本にはじめて伝える。<< 戻る
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『正法眼蔵随聞記』10、唐の太宗の時

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『正法眼蔵随聞記』9、当世学道する人

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『正法眼蔵随聞記』12、道者の用心

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『正法眼蔵随聞記』57、得道の事は心をもて得るか

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『正法眼蔵随聞記』63、唐の太宗即位の後

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