仏教を本気で学ぶ

仏教用語/人物集 索引

このウェブサイトに出てくる仏教用語/人物を五十音順で探すことが出来ます。
仏教を本気で学ぶ

六師外道(ろくしげどう)

六師外道とは、お釈迦様とほぼ同時代にマガダ国(摩訶陀国)周辺で活躍した6名の思想家を仏教の側から見て異端だと見なし、まとめて指すための呼称です。『スッタニパータ【第3 大いなる章】6、サビヤ』に記されています。・プーラナ・カッサパ(不蘭那迦葉)・マッカリ・ゴーサーラ(末迦梨瞿舎利)・アジタ・ケーサカンバリ(阿耆多翅舎欽婆羅)・パクダ・カッチャーヤナ(迦羅鳩馱迦旃延)・サンジャヤ・ベーラッティプッタ(刪闍耶毘羅胝子)・ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ/尼乾陀若提子/大勇)以上が六師外道に当たる思想家です。その時代、インドの都市部では、商工業者たちが貨幣経済によって栄えるようになり、それまで...
仏教を本気で学ぶ

『坐禅用心記』(ざぜんようじんき)/瑩山禅師

正和元(1312)年、瑩山禅師は能登(石川県)に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記』を撰述しました。坐禅の心得を説いた指導書で、『普勧坐禅儀』と共に参禅する者にとって欠くことのできない教説です。坐禅の意義から、参禅の時の呼吸や姿勢、眼の開き方、手の置き方など、さらには食事や衣服などの注意にもふれられ、細かく丁寧に示されています。その全文を掲載いたします。①ルビ(かな読み)②書き下し本文(大太字)『坐禅用心記』それざぜんはじきにひとをして夫れ坐禅は直に人をしてしんちをかいめいし、心地を開明し、ほんぶんにあんじゅうせしむ。本分に安住せしむ。これをほんらいのめんもくを是を本来の面目をあら...
仏教を本気で学ぶ

戯論(けろん)

戯論とは、無益な言論、または、無意味な言論のことをさします。苦しみは自分の心が生み出すものと考えられ、心が怒りや悲しみといった戯論により拡張されていくことです。また、愛着心から行う言論である愛論、偏見より行う言論である見論とに分ける場合があります。仏教では形而上学的な議論は戯論に属します。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

乾陀訶提菩薩(けんだかだいぼさつ)

乾陀訶提菩薩とは、発情期の象を意味する Gandhahastin(ガンダハスティン)の音写です。その時期の象はこめかみから芳香を放ち異性を引き付けます。その妙なる香りと偉大な力を象徴した菩薩で、意訳して香象菩薩とも呼ばれます。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

羂索(けんさく)

もともとは鳥獣魚を捕らえる投げ縄のことでしたが、一切衆生を仏法へと導く象徴とされるようになりました。青・黄・赤・白・黒の5色の糸をより合わせて作られた縄状で、端に金剛杵(こんごうしよ)・独鈷杵(とっこしょ)の半形のもの、他の端に鐶(かん)・環(かん)をつけた仏具です。不動明王・十一面観音菩薩・不空羂索観音菩薩などの持物(じもつ)です。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

眷属(けんぞく)

仏教用語で使われる場合の眷属とは、仏・菩薩・天・明王などを取り巻くもののことをいいます。大乗仏教の世界で様々な仏・菩薩・天・明王などが登場するようになると、それぞれの場所で主となる仏・菩薩・天・明王を中心とした、親族のような関係性ができあがり、眷属となりました。薬師如来の十二神将、不動明王の八大童子、千手観音菩薩の二十八部衆、四天王の八部鬼衆などです。また、その眷属に、さらに眷属がいる場合もあります。例えば、十二神将にはそれぞれ7000の眷属が、二十八部衆にはそれぞれ500の眷属がいるとされています。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

警策(けいさく/きょうさく)

警策とは、注意や自覚を促し戒め励ますことで、「警策を与える」という意味から、修行者の肩や背中を打つ棒そのものが警策と呼ばれるようになりました。臨済宗では「けいさく」、曹洞宗では「きょうさく」と読みます。警策の起源は、中国の明王朝末期~清王朝初期の1600年代頃から使用されはじめた「香板(こうばん)」または「香版(こうばん)」という法具です。日本へは黄檗僧によって伝えられ、警策という意味を込めて呼ばれるようになりました。形状としては、宗派などによって違いがあり、長さが約1~1.5メートル、樫・栗・桜・檜などでつくられています。 手に持つ部分は、四隅の角を削って握りやすく、修行者の肩や背中に当たる...
仏教を本気で学ぶ

玄関(げんかん)

家の入り口のことを玄関と呼びますが、菩提達磨による中国への禅の伝来の時、初め「禅」という言葉が無く、中国の道教の言葉だった「玄」という言葉に訳されました。そこから、自覚としての「深い悟り(=玄)に入るための関門」という意味の仏教語として使われました。それが日本の中世、禅宗の発展に伴って悟りを開く道場としての禅宗寺院の入口を指すようになり、次いで、武家の住宅に取り入れられて意味が変化したものです。もともと中世の人々は、貴族にしても庶民にしても屋敷や家の縁側のようなところから出入りしていたので、明治時代以降になって、現代のように住居などの出入口を指す使い方が一般的になりました。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

見仏記(けんぶつき)- テレビ見仏記

見仏記とは、いとうせいこう(本文を担当)とみうらじゅん(絵を担当)の共著による紀行文シリーズです。仏教美術としての枠にはまったものの見方ではなく、独自の観点で仏像を鑑賞し、独特の表現で言い表す姿が人気です。また、二人が出演するテレビ見仏記では、見仏記のコンセプトのもと関西周辺の仏像を巡る様子を収録しています。この番組はⅮⅤⅮ化、ブルーレイ化され発売されているほか、一部動画配信もされています。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

門前掲示板(もんぜんけいじばん)- お寺の掲示板

門前掲示板とは、お寺の入り口に掲げられ、誰もが見ることが出来る掲示物です。単に掲示板とも、伝導掲示板とも、呼ばれ方の違いはあるものの、多くのお寺で利用されています。門前掲示板の内容は様々ですが、お経やその宗派に因んだものから、書籍やマンガから抜粋されることもあります。文字だけではなく、イラストで現わされることもあります。更新頻度は1ヶ月のところが多いようですが、お彼岸やお盆、新年など、季節の節目やイベント時に特別な掲示物を貼りだすことも多いようです。・門前掲示板便り 一覧<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

袈裟(けさ)

袈裟とは、出家修行者や僧侶が身につける布でできた衣装で、略式の袈裟は信者も着用します。梵語で壊色・混濁色を意味する「カーシャーヤ」を音訳したものです。糞掃衣(ふんぞうえ)、福田衣(ふくでんえ)、法衣(ほうえ)ともいいます。インドの仏教僧侶が身にまとっていた布が袈裟で、初期の仏教の出家僧侶は、下着にあたる安陀会(あんだえ、五条)、普段着にあたる鬱多羅僧(うったらそう、七条)、儀式・訪問着にあたる僧伽梨(そうぎゃり、九条から二十五条)の3枚を持つことが許され、「条」というのはその袈裟に必要とされる布片の幅や枚数を表わします。それらの袈裟と食事や托鉢に使う持鉢(じはつ)をあわせて三衣一鉢(さんえいっ...
仏教を本気で学ぶ

乾闥婆(けんだつば)

乾闥婆とは、八部衆の一つ、また、四天王眷属の八部鬼衆の一つで、香神、香音天、香陰など様々な訳名があります。インド神話においてはガンダルヴァといい、インドラ(帝釈天)に仕える半神半獣の奏楽神団でした。仏教に取り入れられてからも、大勢の神のいる宮殿の中で美しい音楽を奏でる責任者となりました。酒や肉を食べることなく、ただ香だけでその陰身を保っています。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。東方を守護する持国天の眷属です。・「自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。常に行ないをつつしみ、自己を整えている人、このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガン...
人物

結髪の行者ケーニヤ

結髪の行者ケーニヤは『スッタニパータ【第3 大いなる章】7、セーラ』に登場するお釈迦様の信者です。また、セーラ・バラモンのことも信奉していました。上記の章で結髪の行者ケーニヤがお釈迦様に食事を供養する様子が記されています。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

見一切義仏(けんいっさいぎぶつ)

見一切義仏とは、一切の意義を見る者という意味の上方の現在仏です。梵語では sarvarthadarsa(サルヴァールタ・ダルシャ)といいます。また、見一切義如来と記述されることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

見性成仏(けんせいじょうぶつ)

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、悟りという本来の自分に立ち戻ることで、文字にできない宝を手にすることが出来るという意味です。心というのは、求めても求めてもつかめるものではなく、決まった形がないという事実を、観念ではなく体験として知ることが大切です。▶ 菩提達磨大師
仏教を本気で学ぶ

『妙法蓮華経化城喩品』(みょうほうれんげきょうけじょうゆぼん)

こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

『妙法蓮華経見宝塔品』(みょうほうれんげきょうけんほうとうぼん)

こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

三解脱門(さんげだつもん)

三解脱門とは、空、無相、無願の三種の禅定の名称です。悟りに通ずる三つの道。禅定(三昧)の三つの目標。悟りの境地に至るための三つの解脱門です。略して、解脱門(げだつもん)、三解脱(さんげだつ)ともいいます。三三昧(さんざんまい)とも。①空解脱門(くうげだつもん)は、存在の空を観ずること。②無相解脱門(むそうげだつもん)は、空であるゆえに差別の姿のないことを観ずること。③無願解脱門(むがんげだつもん)は、無相であるゆえに願い求めるべきものがないことを観ずること。また、寺院境内にある山門に同様の意味を込めて三解脱門と呼称するものがあります。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

名称と形態(めいしょうとけいたい)

名称と形態とは、現象界の事物はそれぞれ名称(nama)と形態(rupa)を持っているという意味で、namarupa(ナーマルーパ)は古ウパニシャッドに出てくる語句です。この観念が仏教にとり入れられましたが、rupaという語は「色」という意味もあるので、漢訳仏典ではnamarupaを「名色」(みょうしき)と訳します。それはあらゆる事象について言えるので、仏教では全現象の総括としての個人存在と同一視され、その構成要素としての五蘊とも同一視され、「色」は色蘊で物質面を意味し、「名」は受・想・行・識の四つの蘊で精神面を意味すると解釈されました。・「バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には...
仏教を本気で学ぶ

解脱(げだつ)

解脱とは、煩悩や束縛を離れて精神が自由となることです。苦しみ悩む世界から解放された安らぎの状態であることから、悟り、涅槃と同じ境地を表します。また、三解脱門という三種の禅定があります。仏教だけで使われる言葉ではなく、ヒンドゥー、ジャイナ教、シーク教において様々な意味で語られています。梵語(サンスクリット語) vimokṣa、vimukti、mukti巴語(パーリ語) vimokkha、vimutti、mokkha、vimokha・「財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、彼らの行く路(足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹が知り難いように。」(ダ...
人物

月照(げっしょう)

幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)住職となりました。しかし尊王攘夷主義に傾倒して公家たちや活動家たちと関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、幕府から危険人物とみなされました。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭しています。安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留ま...
人物

月性(げっしょう)

江戸時代末期の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村、妙円寺の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星巌・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた。生誕 文化14年9月27日(1817年11月6日)命日 安政5年5月11日(1858年6月21日)<< 戻る
人物

契沖(けいちゅう)

江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となるが、高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行う。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となる。『万葉集』の解釈を進...
人物

顕如(けんにょ/顯如)

戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐とも呼ばれる。院号は信楽院。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣・九条稙通の猶子。室は左大臣・三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。宗教者でありながら武装した僧侶や信徒と共に、神仏の冒涜を繰り返した織田信長を敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて、天下統一を目前で阻止した。軍事的にも経済...
人物

桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)

室町時代後期の臨済宗の僧。薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。 長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺の惟肖得巌や景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して蘇州などを遊学し朱子学を究める。1473年、日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年、島津忠昌に招かれて大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481年...
仏教を本気で学ぶ

竪精論議始まる(けんせいろんぎ)

応永十四年(1407年)5月3日、二者対立して論議の勝敗をあらそう竪精論議始まる。竪精(りっせい)とは、高野山の僧侶が履修する「学道」と呼ばれる真言教学について研鑽する一連の儀礼の一つで論議の方式を言います。僧侶の研究精神を高める、また天皇や先覚者への供養などのために、奈良興福寺で行われていた論議を導入し初めて行われました。以来、例年、旧暦の5月3日に行われています。この竪精の論議は、高野山に住む僧侶の序列、検校法印を最高位として昇進する課程における重要な関門、いわば試験とも言えます。論議では弟子役の竪義(りゅうぎ)と呼ばれる僧侶が師役の精義と呼ばれる僧侶に対し、難題を問うてその解答を求めます...
人物

瑩山禅師(けいざんぜんじ)- 瑩山紹瑾(じょうきん)

瑩山紹瑾とは、一般には瑩山禅師と呼ばれる鎌倉時代の僧侶で、日本の曹洞宗教団では第四祖です。日本曹洞宗開祖の道元を高祖大師、瑩山を太祖大師と呼びます。諡号は佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。『伝光録』、『瑩山清規』などを著わしています。瑩山は、1268年11月21日(陰暦では10月8日)に越前多称邑(たねむら)(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生家で生まれました。道元が亡くなってから15年後のことです。幼名を行生(ぎょうしょう)といいました。観世音菩薩を信仰する母親のもとで育てられた瑩山は、1275年、8歳の時に永平寺に入り、徹通義介禅師の下で沙弥となり修行を始めました。1280年、13歳の時に...
年表

永光寺-石川県羽咋市

・永光寺 曹洞宗 石川県羽咋市酒井町イ11永光寺(ようこうじ)は、正和元(1312)年、能登(石川県)に地頭酒匂頼親の娘(祖忍)の勧請を受けた太祖瑩山紹瑾禅師が、生涯幽棲の地と定めて創建した開山禅師示寂の道場です。そこで『坐禅用心記』を撰述しました。坐禅の心得を説いた指導書で、『普勧坐禅儀』と共に参禅する者にとって欠くことのできない教説です。創建当時は、本寺を中心に5院20数坊を擁し、曹洞宗五祖の遺品を埋納した五老峯の築造や、三重の利生塔の建立。さらに後醍醐天皇をはじめ、4代に渡り勅願寺を務め隆盛を極めますが、応仁の乱、天正7年(1579)の兵火に遭い全山を焼失。現在の伽藍は寛永以降の再興で、...
仏教を本気で学ぶ

建長寺派(本山建長寺(鎌倉))の開派

建長5(1253)年、中国・宋から招かれた蘭渓道隆禅師により始まる。臨済宗建長寺派(楊岐派の禅)。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

「正法眼蔵」見仏(けんぶつ)

こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

「正法眼蔵」袈裟功徳(けさくどく)

こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る