治安三年(1023年)、山科・曼荼羅寺(後の随心院)を建立した仁海(951~1046)の勧誘により、時の関白・藤原道長高野山にのぼり、藤原氏が空海に帰依するようになり、その保護を受けて寺領も増え、高野山は次第に再興されていきます。
その後、貴族から民衆に至るまで広く信仰を集め、高野山は現世の浄土とされました。布教の原動力となったのは、「高野聖」と呼ばれる念仏僧たちです。彼らは諸国を巡り、津々浦々で弘法大師の奇跡を語りました。同時に、高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。高野聖たちが伝えた数々の弘法大師伝説は、今も全国各地に語り継がれています。空海上人を手本とし、彼ら自身も土木や医療などの最新技術を伝えました。
平安末期には白河上皇や鳥羽上皇も高野山に参詣しました。12世紀中盤には平清盛が根本大塔を再建。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝わっています。
<< 戻る