浄土宗の出来事

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本覚寺-和歌山県西牟婁郡

・本覚寺(貝寺) 浄土宗 和歌山県西牟婁郡白浜町瀬戸627本覚寺の創建について、詳細は残っておらず、応仁年間(1467~69年)との一説もありますが、過去帳によると、寛永10年(1633年)から始まったとされています。旧記によれば、古来白良浜(白浜町)の奥寺谷にあった真言宗のお寺を、元禄年間に現在の瀬戸に移し、その際に浄土宗に改宗したとされています。(リンク先より) << 戻る
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勢至堂、経蔵、三門以外の建物が焼失

1633年(寛永10年)、知恩院で火災が発生し、勢至堂、経蔵、三門以外の建物が焼失してしまいました。その時の様子が、当時知恩院の山役で、塔頭(たっちゅう)良正院の宗把(そうは)上人の手記に詳細に書かれています。「正月九日亥の刻(午後10時)火が出て、私は一番に方丈に入り火の元に行ったが、すでに小方丈北側半分まで火が移っていた。霊巌上人は猛火の中に飛び込もうとしていたのでそれをなだめ、人を付けてお護りした。私は奥に入り権現様や秀忠公ご拝領の品などを持ち出した。御影堂に延焼するのを防ぐ為、霊巌上人や寺内の衆、一心院住持、近辺の衆と共に御影堂北側の廊下を切り離そうとした。そこへ周防守様の御家中木下宮...
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常徳寺-東京都文京区

・身代わり地蔵 常徳寺 浄土宗 東京都文京区本駒込3-7-16寛永7年(1630年)8月、開山立誉善達上人俗姓の兄 安藤又右ヱ門氏、湯島天神切通にあった日蓮宗善正寺を購入して浄土宗に改め、常徳寺と号して善達上人を開山とした。天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(お七火事)にて類焼、再建しようとしたが御用地のため幕府に召上げられ、天和3年(1683年)5月、駒込麟祥院領百姓地(現在地)を求めて再建する。(リンク先より)
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正覚寺-青森県青森市

・正覚寺 浄土宗 青森県青森市本町1-1-12青森市本町( 旧寺町)に立ち並ぶ四ヵ寺の中では、その創立が最も古い寺院。善知鳥村が 青森村と改名され、ようやく街が出来始めた頃の寛永三年(1626年)、時の開港奉行森山 弥七郎が民心安定の為寺院設置の必要を津軽藩主信枚に懇願、寛永五年(1628年)建立。(リンク先より) << 戻る
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蓮台寺-愛知県豊田市

・蓮台寺 浄土宗 愛知県豊田市上野町2-38住古から不動堂村(上野町内)に地蔵仏が祠られていたが、永禄(1558~20)の頃の兵火で付近の寺と共に堂宇は焼失した。寛永2年(1625)再建立され、地蔵菩薩を本尊として再興してから、同10年(1633)、近くの随応院中興の七世源蓮社然誉上人(地元の山内重但の次男)を開山に招じて浄土宗となり、地蔵院法然寺と寺号公称した。(リンク先より) << 戻る
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最勝院-千葉県船橋市

・最勝院 facebook 浄土宗 千葉県船橋市本町3-35-5当山は、寛永年間(1624~1643)の初頭、浄勝寺住職大超(潮?)上人により塔頭として創建されたと伝えられる。慶安年間、中興開山但譽了受大徳により堂宇の再建がなされた。明治20年頃、浄勝寺塔頭から独立寺院となり、尋蓮社聲譽察音上人(明治25年12月13日没)の手により、堂宇の改修が行われ、その後、昭和34年、正蓮社覚譽上人(千野定戒)、昭和49年、中興圓蓮社融譽上人(千野定勝)により堂宇の整備がなされると共に教線の拡張が図られた。(リンク先より) << 戻る
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照源寺-三重県桑名市

・照源寺 浄土宗 三重県桑名市大字東方1308寛永元年(1624年)桑名藩主であった松平隠岐守定勝公(徳川家康公の異父弟)の御逝去に際し、二代将軍徳川秀忠公の台命により 御父菩提の為、御子の松平隠岐守定行公が新規に一寺を建立し、当地に埋葬しました。すなわち当山は松平家菩提の為に建立されたお寺です。(リンク先より) << 戻る
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大英寺-長野県長野市

・大英寺 浄土宗 長野県長野市松代町松代1314皓月山大英寺は松代藩初代の藩主 真田信之公が、その奥方であった小松姫(大蓮院殿)の菩提を弔うために建立した寺です。小松姫の戒名は「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」で、大英寺の名前もここからいただいております。元和8年(1622)、信之公は松城(松代)へ転封になり松城に大蓮院殿の寺を移しました。それが現在の大英寺となります。(リンク先より) << 戻る
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徳源寺-滋賀県甲賀市

・徳源寺-facebook 浄土宗 滋賀県甲賀市信楽町下朝宮462㭝牛という僧が元和8(1622)年に法泉寺として開山した。その後、領主山口源助が浄土宗に改め、京都黒谷金戒光明寺に末属した。正保4(1648)年源助が亡くなった時に白龍という住職が源助の法号から寺名を徳源寺と改めた。本尊阿弥陀如来立像(木造、漆箔、古色、像高93.3cm)は、原材の丸太を彷彿とさせるような体系が特徴である。現在は、一度前後に割り放して内部にえぐった痕があるが、これは後世の所為と考えられている。10世紀後半の作品だと目されている。現在は来迎印を結んでいるが、当初は異なった施無畏・与願印だった可能性が示唆されている。...
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定泉寺-東京都文京区

・東光山 定泉寺 浄土宗 東京都文京区本駒込1-7-12元和七年(1621)本郷弓町にあった「太田道灌の矢場跡」を旗本蜂屋九郎次郎善遠が拝領し堂宇を建立、増上寺定誉随波上人を開山に迎え、東光山見性院定泉寺と号しました。明暦の大火のあと現在地に移転。(リンク先より) << 戻る
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大雲寺-兵庫県宍粟市

・大雲寺 浄土宗 兵庫県宍粟市山崎町上寺169当山は元和5年(1619) 専誉上人によって開山されたお寺です。開山 称蓮社専誉上人天樹大和尚は、姓は千葉氏と言い、文禄2年(1593)下総国千葉に誕生されました。佐倉清光寺森誉玄愚上人に就いて、剃髪・出家・檀林附法の後、大坂大雲寺に住し、姫路幡念寺を経て、播磨山崎の地に赴き、当地において元和5年(1619)8月15日に、入仏法要が行われました。(リンク先より) << 戻る
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知恩院、三門、経蔵を造営

1619年(元和5年)、江戸幕府が知恩院の三門、経蔵を造営、2年後に竣工しました。【三門】1619年(元和5年)、徳川二代将軍秀忠公の命を受け建立されました。平成14年には国宝に指定されました。構造は入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、我が国現存の木造建築として最大級の二重門で、外に掲げられている「華頂山」の額は、大きさは畳二畳以上にもなります。一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書きます。これは、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」とい...
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本念寺-秋田県秋田市

・本念寺 浄土宗 秋田県秋田市広面字赤沼98本念寺は元和2年(1616)良無文廓上人が開基されました。 しかし本念寺には縁起(建立理由)が残されておりません。​ですが歴代の住職のお戒名から察せられることがあります。(リンク先より) << 戻る
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心行寺-東京都江東区

・双修山 心行寺 浄土宗 東京都江東区深川2-16-7双修山養源院と号し、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立。開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。(リンク先より) << 戻る
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龍岸寺-京都府京都市下京区

・龍岸寺 浄土宗 京都府京都市下京区塩小路通大宮東入八条坊門町564寺史によれば龍岸寺は僧・三哲によって、元和2年(1616)に創建されたとされる。龍岸寺の山門前の通りは、いまは塩小路通と呼ばれるが、かつては三哲通だった。(リンク先より) << 戻る
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西岸寺-東京都文京区

・東光山荘厳院 西岸寺 浄土宗 東京都文京区春日1-12-12創 建 元和2年(1616年)開山上人(初代住職) 単称長察和尚開 基(お寺の創建者) 内藤家と小田切家本 尊 阿弥陀如来 木立像2尺 恵心僧都作と伝えられている(リンク先より) << 戻る
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應典院-大阪府大阪市天王寺区

・應典院 浄土宗 大阪府大阪市天王寺区下寺町1-1-27應典院は、大蓮寺三世誓誉在慶の隠棲所として1614年に創建された大蓮寺の塔頭寺院です。1997年に再建される際、一般的な仏事ではなく、かつてお寺が持っていた地域の教育文化の振興に関する活動に特化した寺院として計画され、〈気づき、学び、遊び〉をコンセプトとした地域ネットワーク型寺院として生まれ変わりました。(リンク先より) << 戻る
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浄心寺-東京都文京区

・江戸札所十番 浄心寺 浄土宗 東京都文京区向丘2-17-4浄心寺は、元和2年(1612年、徳川2代将軍秀忠の頃)に畔柳助九郎氏が大旦那となり、還蓮社到誉文喬和尚を開山上人とし、湯島妻恋坂付近に創建されました。その後、八百屋お七の振り袖火事として知られる江戸の大火により焼失し、現在の地に移転しました。(リンク先より) << 戻る
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雲光院-東京都江東区

雲光院 浄土宗 東京都江東区三好2-17-14徳川家康公の側室阿茶局の菩提寺として、慶長十六年(1611年)阿茶局自らの発願により、増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人(初代住職)として仰ぎ開創されました。阿茶局の法号「雲光院」がそのまま寺の名称になりました。 開創地は中央区馬喰町付近でありましたが、明暦三年(1657年)の大火に被災し、神田岩井町に替地となり、天和二年(1682年)現在の深川の地に再び替地となりました。(リンク先より) << 戻る
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瑞泉寺-京都府京都市中京区

・慈舟山 瑞泉寺 浄土宗西山禅林寺派 京都府京都市中京区木屋町通三条下る石屋町114慶長16年(1611年)。時の豪商角倉了以翁は運河として高瀬川を開削する工事をおこなっていました。その途中三条辺りにさしかかったとき、「塚」が荒廃している様子を発見。秀次公とそのご一族に以前から深く同情していた了以翁は、浄土宗西山派の僧「立空桂叔和尚」(後に瑞泉寺の開山上人)と計り、荒廃した墓域を整理すると共に、ご一族の菩提を弔う寺をその場所に建立することとしました。山号は、高瀬川を往来する船に因んで「慈舟山」。寺名は、京極誓願寺の中興教山上人が新たに秀次公に贈った法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」からとって「瑞泉寺...
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森巖寺-東京都世田谷区

・森巖寺のホームページ 浄土宗 東京都世田谷区代沢3-27-1江戸から遠く離れた越前での臨終に際して秀康公は、一乗院住職万世和尚に自分の死後に江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよと命じました。この遺命を託された万世和尚が高齢だったため、弟子の清譽存廓上人に託して、慶長13年(1608年)に當寺を開山。その建立にあたっては隣接する北沢八幡 別当寺とし、森巖寺一帯は天領となりました。そしてその八幡を山号、秀康公の法名浄光院殿森巖道慰運正大居士にちなんで浄光院を院号寺号として、八幡山浄 光院森巖寺と命名されました。(リンク先より) << 戻る
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西方寺-和歌山県田辺市

・西方寺 浄土宗 和歌山県田辺市古尾25-3開基年代は不詳ですが、慶長12年(1607年)に賢譽上人が西の谷御所谷(現在の田辺市上の山)から現在の地に移され、中興上人となられました。(リンク先より) << 戻る
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後陽成天皇八宮を門跡に定める

1607年(慶長12年)、後陽成天皇の第八皇子として誕生された良純入道親王(通称は八宮)は5歳の時に知恩院門跡に定められる。知恩院初代門跡。<< 戻る
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称念寺-京都府京都市上京区

・称念寺 浄土宗 京都府京都市上京区寺ノ内通浄福寺西入上る西熊町275嶽誉(がくよ)上人が陸奥国土浦城主松平信吉公の帰依をえて慶長11年(1606年)に建立されました。信吉公は元和6年(1620年)に没し、当寺に葬られています。信吉公と徳川家康公は義兄弟に当たり、当寺の寺紋は三ツ葵が許されました。三代目の住職の猫の恩返しでお寺が復興した伝説があります。(リンク先より) << 戻る
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知恩院、青蓮院の一部を与えられ寺地堂舎を造堂

1604年(慶長9年)、徳川家康が母・伝通院(でんつういん)の菩提寺に決めたことから江戸幕府からの援助を受けるようになり、青蓮院の敷地の一部を与えられ、寺地堂舎が造堂されました。<< 戻る
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知恩院に寺領七百三石余

1603年(慶長8年)、徳川家康が知恩院を永代菩提所と定め、寺領七百三石余を寄す。<< 戻る
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圓應寺-福岡県福岡市中央区

・圓應寺 浄土宗 福岡県福岡市中央区大手門3-1-71602年4月(慶長7年)4月、福岡藩の始祖黒田如水(黒田官兵衛孝高)公の夫人、照福院殿(光姫)君が初めて寺院を開基し、黒田如水の本尊阿弥陀如来像(快慶作)寄進を受け、天蓮社眞譽上人見道大和尚を呼び寄せ開山。黒田家の菩提寺とした。(リンク先より) << 戻る
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光徳寺-徳島県鳴門市

光徳寺(こうとくじ)山号は白毫山。宗派は浄土宗に属し、開創は1602年で、本尊は阿弥陀如来。阿波西国三十三ヶ所霊場第15番(十一面観音)阿弥陀如来坐像:市指定文化財(鎌倉時代)十一面観音立像:市指定文化財(鎌倉時代)
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勝源寺-島根県大田市

・勝源寺 浄土宗 島根県大田市大森町大森イ430-1石見銀山史跡・勝源寺は、大久保石見守長安と、竹村丹後守道清が大旦那となって、1601年に建てられた。 当時、石見銀山は江戸幕府直轄の領地、「天領」と呼ばれ、幕府から任ぜられた奉行・代官の下、一大産業都市として栄えていた。勝源寺は、そんな奉行・代官の菩提寺として、人々の尊敬を得た。(リンク先より)<< 戻る
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到岸寺-福島県福島市

・到岸寺 浄土宗 福島県福島市大町2-30創建は慶長五年(1600年)、関ヶ原合戦の年。開山は楢葉郡折木(現在の双葉郡広野町)・古本山盛徳寺・第十四世一可良憲上人です。(リンク先より) << 戻る
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大蓮寺-京都府京都市左京区

・大蓮寺 浄土宗 京都府京都市左京区西寺町二条下る正往寺町457名称 引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ) 開基 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の年です 専蓮社深誉和尚により開山(リンク先より) << 戻る
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蓮華寺-大分県国東市

・蓮華寺 浄土宗鎮西派 大分県国東市武蔵町大字池ノ内1708往昔、円通院安祥寺というお寺があった。その寺の由緒沿革等は一切不明であるが、慶長年間大友家譜代の徳丸氏の末裔五郎左衛門尉里久という者が、円通院の霊場の廃寺となったのを悲嘆して、村民に謀り力を合わせて一宇を再興して池中山安祥院蓮華寺と号した。開山は、実蓮社真誉上人莫無和尚である。(リンク先より)※慶長年間 1596年から1615年 << 戻る