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松平定信(まつだいらさだのぶ)

江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩3代藩主。定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばしば言われるが、しかし近年では田沼政権との連続面があったことも重視される。生誕 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)命日 文政12年5月13日(1829年6月14日)守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士<< 戻る
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高橋景保(たかはしかげやす)

江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑の兄。 高橋景保は幕府の命により伊能図をもとに日本輿地図藁を作成する。江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図をシーボルトに見せた。地図は禁制品扱いであったが、高橋はその写しをシーボルトに渡した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。生誕 天明5年(1785年)命日 文政12年2月16日(1829年3月20日)<< 戻る
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正壽寺-愛知県名古屋市西区

・正壽寺 曹洞宗 愛知県名古屋市西区則武新町1-8-2金剛山 正壽寺は、名古屋市西区にある曹洞宗の寺院です。文政12年に活舜全孝尼首座と養頑護拙尼首座が開基し、大光智仙尼和尚初住にて開山しました。ご本尊さまに釈迦牟尼仏をお祀りしています。(リンク先より)※文政12年 1829年 << 戻る
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小林一茶(こばやしいっさ)

俳人。本名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。庵号は二六庵、俳諧寺。 信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。代表作『父の終焉日記』『七番日記』『おらが春』生誕 宝暦13年5月5日(1763年6月15日)命日 文政10年11月19日(1828年1月5日)<< 戻る
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大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)

江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子の港を拠点とした回船の船頭。 天明2年、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に面会して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年に根室港入りして帰国した。生誕 宝暦元年(1751年)命日 文政11年4月15日(1828年5月28日)釋久味信士<< 戻る
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高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)

江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。生誕 明和6年1月1日(1769年2月7日)命日 文政10年4月5日(1827年4月30日)高譽院至徳功阿唐貫居士<< 戻る
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大槻玄沢(おおつきげんたく)

一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。諱は茂質、字は子煥。出身地の磐井から磐水と号す。『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。天明8年(1788年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、寛政2年(1790年)改訂に着手した。寛政10年(1798年)の『重訂解体新書』がそれで、改訂作業は文化元年(1804年)にいちおう完了した(刊行は文政9年(1826年))。生誕 宝暦7年9月28日(1757年11月9日)命日 文政10年3月30日(1827...
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西教寺-兵庫県豊岡市

・西教寺 浄土真宗本願寺派 兵庫県豊岡市庄境1210文化八年四月、高槻・本照寺(富田御坊)の聞法道場(布教拠点)として、建立される。近在の門徒衆による募財等により、荘厳等整えられていく。明治(明治4年推定)になり、三洲布教校にて宗乗を学んだ信海法師が開基住職として就任し、これより、道場から寺院となり、布教活動を展開し、教えを広めていく。(リンク先より)※文化八年 1825年 << 戻る
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山内出火により東本願寺両堂消失

1823(文政六)年11月、山内出火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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大田南畝(おおたなんぽ)

天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われる。生誕 寛延2年3月3日(1749年4月19日)命日 文政6年4月6日(1823年5月16日)<< 戻る
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福聚寺-京都府舞鶴市

・福聚寺 臨済宗東福寺派 京都府舞鶴市字常721伝承によると、福聚寺は、常村北側山腹にあり、火事で焼け1823年【文政6年】現在地に移りました。その後1927年【昭和2年】藁葺き屋根から瓦葺屋根に吹き替え現在に到っております。(リンク先より) << 戻る
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上杉鷹山(うえすぎようざん/治憲/はるのり)

江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。 領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治憲であるが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。生誕 寛延4年7月20日(1751年9月9日)命日 文政5年3月11日(1822年4月2日)元徳院殿聖翁文心大居士<< 戻る
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式亭三馬(しきていさんば)

江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。名は菊地泰輔、字は久徳。通称は西宮太助。生誕 安永5年(1776年)命日 文政5年閏1月6日(1822年2月27日)歓誉喜楽奏天信士(深川雲光院)<< 戻る
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本多利明(ほんだとしあき)

江戸時代の数学者、経世家(経済思想家)。幼名は長五郎、通称は三郎右衛門。号は北夷、魯鈍斎。18歳で江戸に出て、千葉歳胤に天文学を、今井兼庭に関流和算などを学ぶ。諸国の物産を調査し、1766年(明和2年)24歳の時、江戸に算学・天文の私塾を開き、以後晩年にいたるまで、浪人として門弟の教育に当たると共に著述に専心した。一時は加賀藩の前田家に出仕する。1781年(天明元年)39歳の頃から北方問題へ関心を強め、危機意識を持った。1787年(天明7年)奥羽地方を旅し、天明の大飢饉に苦しむ会津藩・仙台藩などの農村の悲惨さを目のあたりにした。これらが主な動機となって、彼の関心は経世論に向かった。1789年(...
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塙保己一(はなわほきいち)

江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助、失明後に辰之助と改める。また、一時期、多聞房とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥、保木野一、保己一と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。 四男は、国学者の塙忠宝である。生誕 延享3年5月5日(1746年6月23日)命日 文政4年9月12日(1821年10月7日)<< 戻る
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ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン・ボナパルトまたはナポレオンはフランス革命期の軍人・皇帝・革命家。即位してナポレオン1世に成りフランス第一帝政の皇帝を務める。 フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した。生誕 1769年8月15日命日 1821年5月5日<< 戻る
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カメハメハ1世(カメハメハ大王)

カメハメハ1世はハワイ諸島を初めて統一して1810年にハワイ王国を建国し、初代国王となった人物である。カメハメハ大王の名でも親しまれる。「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意。なお、ハワイ語は文字を持たない言語であった関係で、古い文献などではハメハメハ と表記される例も見られる。 生誕 1758年(諸説あり)命日 1819年5月8日<< 戻る
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アジャンタ石窟寺院(せっくつじいん)

インドのムンバイ(旧・ボンベイ)東北東約350km、マハーラーシュトラ州北部、ワゴーラー川湾曲部を囲む断崖を550mにわたって断続的にくりぬいて築かれた大小30の石窟で構成される古代の仏教石窟寺院。1819年4月に発見。紀元前後から7世紀にわたってつくられ、グプタ式美術を代表する傑作を多く残している。とくに壁画が有名。1819年4月、ハイダラーバード藩王国の藩王に招かれて狩猟に参加していたイギリス人士官ジョン・スミスが虎狩りをしていたとき、巨大な虎に襲われてワゴーラー渓谷に逃げ込んだ際、断崖に細かな装飾が施された馬蹄形の窓のようなものを見つけたことが発見の契機となった。<< 戻る
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蓮光寺-山口県下関市

・蓮光寺 浄土真宗本願寺派 山口県下関市彦島西山町3-13-6文政2年(1819) 某寺掛所として草庵が建つ明治16年(1883)倒壊・無住時期を経て、説教所として再興される(リンク先より) << 戻る
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徳本行者(とくほんぎょうじゃ)

江戸時代後期の浄土宗の僧侶。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。紀伊国日高郡の出身。徳本上人とも呼ばれた。27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名...
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伊能忠敬(いのうただたか)

江戸時代の商人・天文学者・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由。字は子斉、号は東河。 寛政12年から文化13年まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させた。生誕 延享2年1月11日(1745年2月11日)命日 文化15年4月13日(1818年5月17日)有功院成裕種徳居士(観福寺-千葉県香取市)<< 戻る
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杉田玄白(すぎたげんぱく)

生誕 享保18年9月13日(1733年10月20日)命日 文化14年4月17日(1817年6月1日)九幸院仁誉義真玄白居士<< 戻る
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山田検校(やまだけんぎょう)

江戸時代中期から後期にかけて活躍した筝曲音楽家である。筝曲山田流の祖として知られている。本姓は三田。諱は斗養一。号は勝善、幽樵等。山田は母方の旧姓。生誕 1757年6月14日(宝暦7年4月28日)命日 1817年5月25日(文化14年4月10日)覚凉院殿一誉饗和斗養居士<< 戻る
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鳥居清長(とりいきよなが)

江戸時代の浮世絵師。鳥居派四代目当主。鳥居派の代表的な絵師。 鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍し、それらや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人。特に堂々たる八頭身の美人画で、今日世界的に高く評価されている。生誕 宝暦2年〈1752年〉命日 文化12年5月21日〈1815年6月28日〉長林英樹信士<< 戻る
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光福寺-佐賀県藤津郡

・光福寺 浄土真宗本願寺派 佐賀県藤津郡太良町大字大浦甲190石上山光福寺は慶長年間(1600年頃)の創建と伝えられていますが詳細は不明です。太良町誌によると、文化10年(1813)第7世髄泉和尚の時に、竹崎の海岸に大きな木材が流れ着きました。寺ではその木材で阿弥陀如来を刻むことを思い立ち、弥一という仏師に命じて阿弥陀如来像を彫刻し、寺の本尊として永く安置するようになりました。(リンク先より) << 戻る
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稲村三伯(いなむらさんぱく)

江戸時代後期の蘭学者。幼名は龍介、名は箭、字は白羽。号は原昆堂、白髪書生。 石井庄助、宇田川玄真らの協力で、ハルマの蘭仏辞典を基に寛政8年日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』を完成させる。生誕 宝暦8年(1758年)命日 文化8年1月16日(1811年2月9日)<< 戻る
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木喰五行明満(もくじきごぎょうみょうまん)

江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家・歌人。甲斐(山梨県)に生まれ、元文4 (1739) 年、22歳で出家し、宝暦 12 (1762) 年、相模国大山で木喰観海より木喰戒を受ける。生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称する。特定の寺院や宗派に属さず、生涯を通じて全国を行脚し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者として1000体以上の仏像を彫刻したと言われる。木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色である。生誕 1718年(享保3年)命日 1...
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喜多川歌麿(きたがわうたまろ)

江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。代表作に「寛政三美人」「たのしきまとひ」等がある。生誕 1753年(宝暦3年)頃命日 1806年10月31日(文化3年9月20日)秋円了教信士<< 戻る
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本居宣長(も通りのりなが)

江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と共に「国学の四大人」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。主要な作品『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』生誕 享保15年5月7日(1730年6月21日)命日 享和元年9月29日(1801年11月5日)高岳院石上道啓居士<< 戻る
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伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)

江戸時代の画家。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号す。代表作品・『動植綵絵』の内「群鶏図」「池辺群虫図」・日出鳳凰図(にっしゅつ ほうおうず)絹本着色。日出の旭日を背に飛翔する鳳凰。米国、ボストン美術館蔵。・隠元豆 玉蜀黍図(いんげんまめ とうもろこしず)紙本墨画、2幅。和歌山県、草堂寺蔵。・糸瓜群虫図(へちまぐんちゅうず)絹本着色、1幅。実る糸瓜に飛蝗や蝸牛など様々な虫が戯れる。京都の細見美術館が所蔵。・風竹図(ふうちくず)絹本墨画、1幅。京都、細見美術館蔵。・旭日鳳凰図(きょくじつ ほうおうず)絹本着...
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本願寺富山別院-富山県富山市

・本願寺富山別院 浄土真宗本願寺派 富山県富山市総曲輪2-7-121800年頃 (寛政年間~天保頃)川端町に町屋を買い本山会所を設ける1884年(明治17年) 9月13日 別院昇格の許可(以後3度の火災にあうが復興する) 1945年(昭和20年) 8月1日 深夜、富山大空襲にて別院4度目の焼失1946年(昭和21年) 8月1日 仮本堂入仏法要(リンク先より)<< 戻る
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正満寺-東京都港区

・正満寺 浄土真宗本願寺派 東京都港区高輪1-27-44寛政 九年 (1798)文如上人裏書の蓮如上人御影安置。文化 五年 (1808)本願寺十九代本如上人裏書の文如上人御影一幅、親鸞聖人絵伝四幅を安置。正満寺十一世淳東代。文化 八年 (1811)一月十六日 正満寺十一世淳東、徳明寺を正満寺と改め、同二十五日築地別院中より移転。 文化 十一年 (1814)二月 正満寺移転、本山が正式認可。(リンク先より) << 戻る