buddhism

寺院

金剛寺-群馬県前橋市

・金剛寺 真言宗豊山派 群馬県前橋市苗ヶ島町1147開山は承安年間(1171~1175)赤城山大通庵に創建し、山号を霊松山、院号を歓喜院と号した。 次いで寺山と呼ばれる地に移り、慶長、元和の頃(1596~1624)第4世円義上人の代になり、現在地に建立されたと伝えられる。 宝暦年間火災の為灰燼に帰したが、7世智海阿闍梨和尚再建現堂宇は当時のものである。 創建時は京都醍醐寺派報恩院末寺であったが、明治になって奈良県長谷寺の末寺になった。(リンク先より) << 戻る
寺院

増全寺-神奈川県海老名市

・増全寺 浄土宗 神奈川県海老名市中新田1578開山は因公学円上人で、嘉応元年7月15日寂(1169)、開基は鎌倉末期の領主・海老名源八衛広綱とされ、法名の無量院殿龍池増全大居士から山院寺号が付けられ、龍池山無量院増全寺と号す。 開山当時は密教系寺院であったようであるが、浄土宗へ改宗した時期・経緯等は伝えがなく不明である。(リンク先より) << 戻る
寺院

芳蘚寺-静岡県浜松市中区

・芳蘚寺 真宗大谷派 静岡県浜松市中区池町225-18天台宗としての開創は平清盛が太政大臣(ダジョウダイジン)に就任して、その3年目の嘉応元年(1169)である。(リンク先より) << 戻る
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栄西禅師南宋に留学

比叡山を下りた後、仁安3(1168)年4月、南宋に留学し、天台山万年寺などを訪れ、9月に帰国し『天台章疎』60巻を将来しました。<< 戻る
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慈光寺-岩手県久慈市

・慈光寺 時宗 岩手県久慈市大川目町22-62過去数度の火災や戦乱により、当山の歴史を証明する資料を失っておりますが、次のような縁起・由来が今に伝わっております。当山は仁安3年(1168)に、もともとは天台宗として開山します。その後、時宗の二祖上人である真教上人の勧めにより、時宗に転宗しました。(リンク先より) << 戻る
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中国の五山 ~五山制度と臨済宗~

鎌倉時代後期、幕府の実権を握っていた北条氏は、中国の南宋にならい五山制度を導入しました。鎌倉の主な禅寺を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町時代初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したといわれます。定着するまでの過程では、五山に含まれた地含まれなかったりということがあり、基本的には幕府が寺を格付け管理するための制度であったようです。鎌倉幕府は中国の南宋で禅寺の管理のために格式高い五つの寺を定めた五山制度を導入したわけですが、もともとはインドの五山にならったものであったようです。インドの五山とは、天竺五精舎、天竺五山とも呼ばれ、お釈迦様が生...
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法界寺-石川県小松市

・法界寺 浄土宗 石川県小松市東町92小松の内府と称された内大臣、平 重盛が、諸国に小松寺を建立し始めた、一一六七年、龍真法印鎮華院が開祖となり、真言宗新義派に属する小松寺を小寺に建てました。安元元年三月、法然上人(源空)が京都・吉水に浄土宗をお開きになるや直に改宗し、佛徳院 小松寺と号し、弘安年中には、北国鎮護安全の道場勅願所として定められました。天正五年、柴田勝家のため灰燼に帰し、後、小松山 佛徳院 法界寺と称しました。(リンク先より) << 戻る
寺院

聖代寺-香川県高松市

・聖代寺 真言宗善通寺派 香川県高松市屋島東町1332僧西行(俗名 佐藤義清)は、その晩年かつて思いをはせた旧主家徳大寺家の姫君の忘形見、崇徳上皇の菩提を弔うため当地に一宇を建立されました。(崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃州に配流され1164年におかくれになられています。)(リンク先より) << 戻る
人物

天童宗珏(てんどうそうかく)

中国・宋時代の禅僧。長蘆清了に就いて嗣法。弟子には雪竇智鑑がいる。生誕 1091年命日 1162年<< 戻る
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宏智正覚(わんししょうがく)

中国・宋時代の禅僧。隰州隰川県の出身。天童正覚(てんどうしょうがく)とも記述されます。丹霞子淳に就いて嗣法。弟子には自得慧暉がいる。多くの弟子を輩出したことから宏智派の祖とされています。臨済宗楊岐派のなかに大慧派を形成した大慧宗杲と、禅のあり方を巡り激しく対立しました。宏智正覚の主張は、仏性は本来的に有されていることから、坐禅すること自体が禅の姿で、その事実に気付くことこそが大事なことだと、公案を用いない曹洞宗の禅を擁護しました。しかし、大慧宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判しました。対する大慧宗杲は、公案を用いることによって言語による思考を限界に追い詰めつつ坐禅し、言語を超越した悟りへと向か...
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常圓寺-栃木県那須郡

・常圓寺 浄土真宗本願寺派 栃木県那須郡那珂川町片平753保元2年(1157)照證法印成善阿闍梨(俗称は那須太郎資隆の弟、那須次郎資房)が片平字竹ノ内に再興。文治4年(1189)片平城主八郎義隆(那須与一宗隆の兄)が亡父資隆(法号佛光洞照)の法要を営む。建久元年(1190)後鳥羽天皇の時代に後白河法皇より勅願を賜り、佛光山東照院と号する。(リンク先より) << 戻る
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平清盛が大塔再建に尽力する

保元元年(1156年)、平清盛が大塔再建に尽力する。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝えられます。<< 戻る
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法然上人、学匠を訪問

保元元(1156)年、求法のため洛西嵯峨の清凉寺に参籠、のち南都の興福寺に法相宗の蔵俊をたずね、醍醐に三論宗の寛雅をたずね、御室に華厳宗の慶雅をたずねなど学匠を訪問する。<< 戻る
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栄西禅師の得度

仁平3(1153)年、13歳で比叡山延暦寺に登り、久寿元(1154)年に得度し天台教学と密教を修学します。<< 戻る
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長蘆清了(ちょうろせいりょう)

中国・宋時代の禅僧。諡は悟空禅師。真歇清了(しんけつせいりょう)とも記述される。丹霞子淳に就いて嗣法。弟子には天童宗珏がいる。生誕 1089年(元祐4年)命日 1151年11月10日(紹興21年10月1日)<< 戻る
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光顕寺-熊本県熊本市南区

・光顕寺 真宗大谷派 熊本県熊本市南区南高江1-18-39光顕寺の歴史は平安時代まで遡り、石浦河内守藤原經國(つねくに)が久安6年(1150年)に河内から肥後に下向し、髙家城(髙江城)を池ノ辻に築き、翌仁平元年に池畑に大栄寺を建立したことにはじまります。その後白山に城を築き移り住み、髙家城跡に寺院を建立しました。天正元年(1573年)に、僧浄頸によって真宗寺院が再建され、これが現在の光顕寺にあたります。(リンク先より) << 戻る
寺院

清光寺-山梨県北杜市

・清光寺 曹洞宗 山梨県北杜市長坂町大八田6600当寺は平安時代、仁平元年(1151年)に信立寺と称し、逸見玄源太清光の創建になる天台宗寺院で、清光の没後、清光寺に改められた。その後、文明7年(1475年)、興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚が開山となり、曹洞宗に改め、現在に至る。(リンク先より) << 戻る
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法然上人、法然房源空の名を受ける

久安6(1150)年9月、西塔黒谷にうつり慈眼房叡空 (えいくう) に師事。法然房源空の名を受ける。<< 戻る
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大塔に落雷、御影堂を除き全焼

久安五年(1149年)、大塔に落雷、御影堂を除き全焼。久安六年(1150年)、金堂落慶。<< 戻る
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法然上人の修行時代

久安4(1148)年の春、功徳院阿闍梨皇円の指導のもとに「天台三大部」(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』各十巻)を読み始める。<< 戻る
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法然上人の出家受戒

久安3(1147)年11月、比叡山の功徳院阿闍梨皇円の室に移り戒壇院で出家受戒。<< 戻る
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法然上人比叡山へ

天養2(1145)年の春、比叡山に登り西塔北谷の持宝房源光 (じほうぼうげんこう) に師事。<< 戻る
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栄西禅師の誕生

永治元(1141)年4月20日、明庵栄西禅師(みんなんようさいぜんじ)は備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽氏(かやし)の子として誕生しました。11歳で地元安養寺の静心和尚(じょうしんおしょう)に師事しました。栄西の読み方ですが、「ようさい」よりも「えいさい」という読み方の方が浸透しているようですが、栄西禅師の主著である「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)の解説本中に「ようさい」との振り仮名が付けられていることから、正式にはこちらを使います。こちらの「栄西禅師」ページより、その一生を年代順に確認出来ます。<< 戻る
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法然上人仏門へ

永治元(1141)年春、父の漆間時国、預所 (あずかりところ) (荘園を領主から預かって管理する人)の明石定明の夜襲に遭い負傷、逝去。冬、菩提寺の院主である観覚の弟子となる。<< 戻る
人物

覚猷(かくゆう)- 鳥羽僧正(とばそうじょう)

覚猷は、平安時代後期の僧侶。鳥羽僧正と世に呼ばれ、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。生誕 天喜元年(1053年)命日 保延6年9月15日(1140年10月27日)<< 戻る
寺院

成勝寺-東京都世田谷区

・成勝寺 浄土真宗本願寺派 東京都世田谷区宮坂2-24-51139年(保延5)第75代崇徳天皇の御願寺として創建京都の東郊白河の地に天皇の御願寺として創建された旧刹が六か寺あり、いずれも寺号に「勝」の字が付けられたことから 六勝寺と呼ばれた成勝寺もこの六勝寺に数えられる1621年(元和7)寺基を京都から江戸に移す(リンク先より) << 戻る
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法然上人誕生

法然上人(ほうねんしょうにん)は、長承2(1133年)4月7日 美作国(岡山県)久米南条稲岡庄に生まれる。幼名は勢至丸。父は押領使(地方の治安維持にあたる在地豪族)の漆間時国、母は秦氏。<< 戻る
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聖徳寺-愛知県名古屋市北区

・普門山吉祥院 聖徳寺 天台宗 愛知県名古屋市北区福徳町2-30藤原時代の草創で開基は清和天皇の後裔、六孫主源経基の次男源満政七世の孫、浦埜四郎重遠の次男、従六位下右衛門少尉、葦敷次郎源重頼(安食次郎)であり、安食の荘の荘司である。長承墨股合戦(1133)の戦死の霊を弔うために建立する。(リンク先より) << 戻る
人物

良忍(りょうにん)

良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍...
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根来寺-和歌山県岩出市

・根来寺 新義真言宗 和歌山県岩出市根来2286根來寺(ねごろじ)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。13歳で京都・仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。 やがて鳥羽上皇の庇護を受け、長承元年(1132)に学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園と本寺豊福寺(のちに根來寺)を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。(リンク先より)<< 戻る
人物

藤原清衡(ふじわらのきよひら)

平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が出羽国最上郡(現・山形県寒河江市)の慈恩寺を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺の釈迦像を丈六堂に安置した。ただし、基衡は1100年前後の生まれと目されるため実際には清衡が再興したか、再興年に誤りがあるとみられる。生誕 天喜4年(1056年)命日 大治3年7月13日(1128年8月10日)<< 戻る
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川崎大師(平間寺)-神奈川県川崎市川崎区

・川崎大師(平間寺) 真言宗智山派 神奈川県川崎市川崎区大師町4-48崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。(中略)兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養をおこたりませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、...