沢庵宗彭とは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧侶です。大徳寺住持。諡の普光国師は、300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下されました。号に東海・暮翁などがあります。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。ダイコンの漬物である沢庵漬けの考案者と言われています。
紫衣事件
江戸幕府が成立すると、寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなります。特に、大徳寺のような有力な寺院については、禁中並公家諸法度によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられました。これらの法度には、従来は天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る紫衣の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められました。
寛永4年(1627年)、幕府は、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、法度違反とみなして勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じました。これに反発した沢庵は京に上り、玉室宗珀、江月宗玩と共に大徳寺の僧をまとめた後、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと共に反対運動を行い、寛永5年、抗弁書を書き上げて幕府に提出しました。
この運動が幕命に反するものとして、沢庵たちは罪に問われることとなり、その問責のため、寛永6年(1629年)、江戸へ召喚されることとなりました。江戸城内での弁論の結果、同年7月に幕府は沢庵たちを有罪とし、沢庵を出羽国上山に、また玉室を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ各々流罪としました。
配流先である上山藩主の土岐頼行は、沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ、沢庵に草庵を寄進するなど厚く遇したといわれます。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれています。配流中、頼行は藩政への助言を仰ぐなどし、沢庵赦免後も二人の交流は続いたといいます。
生誕 天正元年12月1日(1573年12月24日)
命日 正保2年12月11日(1646年1月27日)
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