瑩山紹瑾とは、一般には瑩山禅師と呼ばれる鎌倉時代の僧侶で、日本の曹洞宗教団では第四祖です。日本曹洞宗開祖の道元を高祖大師、瑩山を太祖大師と呼びます。諡号は佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。『伝光録』、『瑩山清規』などを著わしています。
瑩山は、1268年11月21日(陰暦では10月8日)に越前多称邑(たねむら)(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生家で生まれました。道元が亡くなってから15年後のことです。幼名を行生(ぎょうしょう)といいました。
観世音菩薩を信仰する母親のもとで育てられた瑩山は、1275年、8歳の時に永平寺に入り、徹通義介禅師の下で沙弥となり修行を始めました。1280年、13歳の時に永平寺二世である孤雲懐奘禅師について出家得度し、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)と名を改めました。
1285年1月、諸国行脚(あんぎゃ)の途に入り、越前大野の宝慶寺(ほうきょうじ)の寂円禅師、京都・万寿寺の宝覚禅師、東福寺の東山湛照や白雲慧暁禅師など様々な諸師に訪ね、また比叡山に上っては天台教学や一切経を学びました。
1286年、紀州(和歌山)由良の興国寺の心地覚心禅師を訪ねました。1288年秋、越前に戻り、再び宝慶寺を訪ねた後、永平寺に帰山します。
1289年春、三代相論により永平寺を下山した義介禅師に従い加賀(現在の石川県金沢市)の大乗寺に移り、1294年、上堂にて「平常心是道」の逸話を聞いて大悟され、義介禅師より印可を受けました。
1295年1月14日、義介禅師より道元禅師が自ら縫われた袈裟を伝授されました。その後、阿波国海部郡司が開基した城満寺(現在の徳島県海部郡海陽町)に迎えられ開山となり、また、肥後(熊本県)の大慈寺に寒巌義尹禅師を訪ねました。
1299年、加賀の大乗寺に戻り、1300年、義介禅師の代理として大乗寺の修行僧に対し釈尊以来五十二祖の機縁を提唱し、後に『伝光録』としてまとめられます。1302年、35歳の時に大乗寺2世の住職となり、明峰素哲、峨山紹碩といった弟子達が集まるようになりました。
1311年、加賀の浄住寺を開きます。1313年、能登(石川県)に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記(ざぜんようじんき)』を撰述しました。1321年、定賢律師の請いにより能登郡櫛比庄(現在の石川県輪島市)の諸嶽観音堂を譲り受け、寺名を諸嶽山總持寺(そうじじ)と改めました。
1322年、後醍醐天皇より瑩山禅師に信仰上の10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答により、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。
1324年8月、總持寺を峨山紹碩に譲り、永光寺に退隠します。1325年、永光寺を明峰素哲禅師に任せた後、9月29日(陰暦では8月15日)に58歳で入寂されました。
生誕 文永5年10月8日(1268年11月21日)
命日 正中2年8月15日(1325年9月29日)
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