2025-12

仏教を学ぶ

脚下照顧(きゃっかしょうこ)

寺院の玄関を入ると脚下照顧(きゃっかしょうこ)と書かれた単牌が置かれているのを見かけます。「自分の足元を見なさい」という意味です。玄関に置いていますから、履き物を揃えましょうということを示しています。転じて「自分の行いを見なさい」という意味になります。日本の家庭の多くは玄関で履物を脱ぎますね。それは日常の当たり前の行為です。しかし、その当たり前の行為を大切にし、より良い心に導く言葉が脚下照顧です。導くのは他の誰でもなく自分自身です。ポーンと脱ぎ飛ばした履物も誰かが直してくれるだろうと思っていてはいけないのです。自分で意識して履物を整えます。すると心も整うのです。行いと心は連動したものです。履物...
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成道会(じょうどうえ)

12月8日は仏教の開祖お釈迦様が悟りを開かれた日、つまり成道(じょうどう)の日です。釈迦族の王子であったお釈迦様の姓はゴータマ、名前をシッダッタといいました。何の不自由もない生活をしていましたが、人生の生老病死の苦しみに疑問を抱き妻子を残し出家をします。最初は真理を求めて有名な聖者について学びますが、納得がいく答えを得られませんでした。その後、ウルヴェーラの苦行林で6年間の苦行を続け、それでも真理を見いだせないので、極端な苦行では真理どころか、無駄に心や身体を傷つけるだけであると気づきました。そして、苦行を放棄し、さらなる真理へ到る方法を探すのでした。苦行していた場所から程近いネーランジャラー...
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独坐/独座(どくざ)

独坐とは、ひとりで座っていること。身を遠ざけて、奥まったところに坐すこと。孤座。・「独坐と禅定を捨てることなく、諸々の事柄について常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、サイの角のようにただ独り歩め。」(スッタニパータ 69偈)<< 戻る
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愚痴(ぐち)

愚痴とは、言ってもしかたのないような不平不満を言って嘆くことです。もともとの意味は、仏の智恵に暗いこと、物事の真実を知らないこと、智恵や真実を知ろうとしないことを愚痴といいます。愚痴は、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三つの煩悩である三毒の一つです。愚痴は、インドの古語・サンスクリット語の「moha(モーハ)」が語源だとされています。モーハは、中国語に翻訳された時に、愚痴、莫訶、馬鹿などに訳されました。ですので、馬鹿という言葉も、愚痴と同じ語源です。仏教では、もっと根源的な人間の「愚かさ」を表す概念として使われています。現代の用法は少し意味が変わってきているようですが、「くどくどと愚痴を言う」「...
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喜心・老心・大心(きしん・ろうしん・だいしん)の三心(さんしん)

喜心・老心・大心の三心とは、労働する時の重要な心構えを表しています。「喜心」とは、喜んで物事に取り組む心です。例えば食事を作る役割にあるならば、食事を作ることのできる巡り合わせの因縁を感謝し、自分だけのためでなくて、他人のためになること、さらには他人の利益につながることを喜んでする。分け隔てなく物事に勉める喜悦の心を表します。「老心」とは、物をいたわる心です。父母が切々と子どもを思い、自身の寒さや熱さをかまうことなく、子どものすこやかなことを願いながら、いつくしみ育てるような親切心を表します。「大心」とは、偏りのない心です。そびえ立つ山や果てしなく広がる大海のように、高く広い思いを持ち、一方に...
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監寺(かんす)/監院(かんにん)

監寺・監院とは、都寺の次位にて寺の一切の事務を担います。六知事の一つ。・「むかし、則公監院といふ僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師とうていはく、則監寺、なんぢ我が会にありていくばくのときぞ。」(「正法眼蔵」弁道話)・「いわゆる当職は一日夜を経、先ず斎時罷、都寺監寺等の辺に就いて、翌日の斎粥の物料を打す。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)<< 戻る
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四向四果(しこうしか)

四向四果とは、初期の仏教での聖者の位を、預流(よる)、一来(いちらい)、不還(ふげん)、阿羅漢(あらかん)という四つの聖位に分けられており(四双/しそう)、その一つ一つの位について向と果がありました。向とは修行の目標として進みつつある位、また、果は到達した境地を示します。それにより八つの位に分けられることから八輩(はっぱい)、四双八輩(しそうはっぱい)ともいいます。修行の目標として進みつつある位四向(しこう)とは、預流向(よるこう)、一来向(いちらいこう)、不還向(ふげんこう)、阿羅漢向(あらかんこう)のことです。また、到達した境地を示す四果(しか)は、預流果(よるか)、一来果(いちらいか)、...
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無常(むじょう)

常に変化していることを無常と言います。全ての物事が常に変化していることを諸行無常と言います。これを聞いて、多くの人は「当たり前だな」と思うわけですが、私たちは同時に大切なもの、大切な人、大切な活動、大好きな場所などは「変わらないでほしい」という気持ちも自然にあります。無常を前提に、後者を大切にして生きるのか、無常を無視して大切なもの、大切な人、大切な活動、大好きな場所などに永遠を求めるて生きるのかは大きな違いだと思います。失う苦しみも大きいかもしれません。その他の方法として、どちらも曖昧にしておく、考えないということも出来ます。しかし、「当たり前だな」と分かっていることを隠すことは得策でしょう...
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12月の出来事/有名人の誕生日・命日

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『典座教訓』(てんぞきょうくん)

典座教訓とは、修行道場で食事を担当する役職である「典座」の心がまえを示した書です。1237年に道元禅師により、自身の中国での修行の経験を踏まえて著されました。それまで日本では注目されることなく軽視されていた典座の職を高く評価し、重要視するべきだと説いています。修行としての食事とはいかなるものであるかを示され、典座の大切さや意義を中国で出会われた老典座との逸話などをまじえ、喜びの心(喜心)・相手を思いやる心(老心)・動じない心(大心)の三心を、調理する者の心とし、素材そのものを生かす料理でなければならないと説かれています。典座教訓に著されている中国・宋での体験は、道元禅師の仏法・修行のあり方に影...