【仏教用語/人物集 索引】

近松寺-佐賀県唐津市

投稿日:1302年1月1日 更新日:

近松寺(きんしょうじ) 臨済宗南禅寺派 佐賀県唐津市西寺町511-1

寺の創建は寺伝によれば、のち二條天皇の乾元元年(1302)と伝えられています。降って天文年間(1532~1554)、岸嶽城主波多三河守親は博多聖福寺の僧湖心碩鼎(こしんせきてい)の高徳を慕い、満島山(現在の唐津城内)に近松寺を再建し開祖として迎えたと伝えられています。この寺は、天正2年(1574)に兵火に遭い(あい)焼失しました。

文禄(ぶんろく)2年(1593)、豊臣政権によって波多三河守親が改易になり、寺沢広高が波多氏の後を受けて唐津地方の代官になりました。そこで、広高は博多聖福寺にいた耳峯玄熊(じほうげんゆう)を招き、中国の明や朝鮮との外交を任せました。耳峯禅師(じほうぜんじ)は、よくその任に応えると共に慶長3年(1598)には祖師湖心碩鼎(そしこしんせきてい)ゆかりの近松寺を現在地に再興しました。寺沢広高は耳峯禅師の功績に報いるために寺田百石と山林を寺産として贈り、菩提寺として篤く(あつく)帰依(きえ)しました。

寺沢氏2代目の堅高(かたたか)が江戸藩邸で死去すると嗣子(しし)がなく寺沢氏は断絶になり、寺運も衰退に向いました。第四世遠室明超(えんしつみょうちょう)はこれを憂い徳川家光に近松寺の隆盛を懇請(こんせい)しました。やがて、これが聞き届けられ百石の御朱印を賜り(たまわり)旧観を維持する事ができるようになりました。

その後、譜代の大名大久保・松平・土井・水野・小笠原各氏の唐津入部となりましたが、歴代の城主は当寺を帰依しました。中でも文政元年(1818)に入部した小笠原公は寺田百石を寄進して、菩提寺として深く帰依しました。

近松門左衛門の遺髪塚(いはつづか)
江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作家、近松門左衛門が幼少期に学んだという伝承もある近松寺。境内の本堂脇には門左衛門の遺髪塚が建てられています。
小笠原記念館
唐津藩6代目藩主小笠原氏の資料や、小笠原長生と関係が深かった乃木希典(のぎまれすけ)の、唐津藩ゆかりの高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵、奥村五百子など明治期に活躍した郷土の偉人達の肖像写真などが展示されています。
設計を手がけたのは、長崎の日本二十六聖人記念聖堂などで知られる今井兼次氏です。和風の意匠に現代建築を組み合せた上質なデザインです。
木造平屋建てです。1956年竣工しました。

エピソード・伝承・うんちくなど
湖心碩鼎(こしんせきてい)は天文8年(1539)大内義隆の命を受けて遣明正使となった高僧です。湖心禅師は耳峯禅師の師です。
文禄慶長の役のさなか、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が大坂へ帰り名護屋城を離れたことに伴い、寺沢志摩守広高が代官になりました。『近松寺由緒』によれば広高は明や朝鮮との外交をつかさどっていたため、通事として博多聖福寺から耳峯玄熊(じほうげんゆう)を招き事に当てました。そのこともあって、広高は耳峯禅師の師に当る湖心禅師が再興した近松寺を与えたと言います。

湖心碩鼎・耳峯玄熊の登用は、当時唐津の政治的重要さと共にそれを果した禅僧の役割の大きさがうかがえます。その一方で湖心・耳峯禅師の来住により、高僧の交流は唐津にまで広まり当地の文化を潤したことも想像出来ます。(リンク先より)

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