中国・宋時代の禅僧。葉県帰省に就いて嗣法。その後、大陽警玄の下で修業を続け、ここでもその力量を認められらがらも、既に嗣法していたため、嗣ぐに相応しい弟子のいない大陽警玄の法を預かり、その後、投子義青に代付した。
「法遠不去」(法遠去らず)
ある時、浮山法遠は葉県帰省禅師の下で修行をしたいと、
天衣義懐と共に入門を願い出ますが許されることなく何日も過ぎていきました。
雪の舞うある日、ようやく葉県禅師が現れたのですが、
入門を願って集まっていた者たちに水を浴びせる始末です。
それにたまりかねて、皆去ってしまいましたが、
浮山法遠は天衣義懐と共に諦めません。
葉県禅師「まだ去らないなら打つぞ」
浮山法遠「禅を求めて禅師の下にまいりました。どうして一杓の水くらいで去りましょうか」
そのように答えてようやく入門を許されました。
師となった葉県禅師の禅風を「厳冷枯淡」(げんれいこたん)と表しますが、
浮山法遠が典座を任されていた頃、
修行僧は皆、常に飢えに苦しんでいたと言われます。
そこで、浮山法遠は葉県禅師が出かけた隙に、皆の為を思って蔵の鍵を開け、
油と小麦粉で五味粥というご馳走を振る舞うため調理に取り掛かります。
そのご馳走が出来上がるぞという時、
そこに葉県禅師が予定より早く帰ってきます。
浮山法遠を呼びつけた上に叱りつけ、
油と小麦粉の代金は自身の衣鉢を売って弁償させ、
棒で何発も打ち据えてから寺を追い出します。
さらには、浮山法遠が境内に寝泊まりしているのを知り、
その宿賃も納めろと取り立てました。
法遠は嫌な顔ひとつ見せず、托鉢してお金を返済しました。
ある時、葉県禅師は黙って風雨に耐えるその托鉢姿を見かけますが、
そこで寺に戻って「法遠は真の参禅の志がある」と皆に言います。
浮山法遠を寺に呼びもどし、自らの後継者としました。
ひたすら耐えた法遠の志を貴んで「法遠去らず」として伝わっています。
葉県禅師の指導も浮山法遠を見込んでのことだったのです。
その後、大陽警玄の下で修業を続け、
ここでもその力量を認められらがらも、既に嗣法していたため、
嗣ぐに相応しい弟子のいない大陽警玄の法を預かり、
その後、投子義青に代付したという話も含め、
一連のエピソードで浮山法遠の人柄が伝わってきます。
生誕 961年
命日 1067年
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