江戸幕府の第13代征夷大将軍。第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。
天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。
黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第13代将軍となった。
家定の後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。
家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年)、諸大名を招集して慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。
生誕 文政7年4月8日(1824年5月6日)
命日 安政5年7月6日(1858年8月14日)
温恭院殿贈正一位大相国公
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