東大寺-奈良県奈良市

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仁王像(におうぞう)

仁王像とは、寺院の山門内で本堂を背に正面を向き境内を守っている二体一対の金剛力士像のことです。二王と表記される場合もあります。向かって右が口を大きく開け金剛杵(こんごうしょ)を持っている金剛像(阿形像・あぎょうぞう)、左が口を閉じている力士像(吽形像・うんぎょうぞう)です。ただし、明確に分類しない場合もあり、左右が逆の場合もあります。東大寺南大門の仁王像の安置方法は先の例とは違い、門内で向きあって安置されている上、左右逆になっています。「仁王立ち」「阿吽の呼吸」(仁王像・日石寺・富山県上市町)<< 戻る
人物

重源(ちょうげん)

平安時代末期から鎌倉時代の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に浄土教を学ぶ。大峯、熊野、御嶽、葛城など各地で険しい山谷を歩き修行をする。重源は自ら「入唐三度聖人」と称したように中国(南宋)を3度訪れた入宋僧だった。重源の入宋は日宋貿易と共に日本僧の渡海が活発になった時期に当たり、仁安3年(1168年)に栄西と共に帰国した記録がある。宋での重源の目的地は華北の五台山だったが、当地は金の支配下にあったため断念し、宋人の勧進の誘...
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栄西禅師、東大寺勧進職に

建永元(1206)年には、重源の後を受けて栄西禅師が東大寺勧進職に就任。<< 戻る
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運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる

1203年、運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる。<< 戻る
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法然上人、東大寺大勧進職を辞退する

養和元(1181)年、東大寺大勧進職を辞退し、重源を推挙する。<< 戻る
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最澄上人、具足戒を受ける

最澄上人は奈良の都に行き、さらに勉学を積みました。そして延暦4(785)年、東大寺で具足戒を受けました。受戒後、比叡山に籠り一人修行を続けます。<< 戻る
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正倉院ができる

756年、東大寺の宝庫、正倉院ができる。聖武天皇の遺品などを保存、校倉造り。<< 戻る
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東大寺の大仏ができる

752年、東大寺の大仏ができる。天平文化がさかえる。多くの民衆と僧行基の力を借りる。<< 戻る
人物

行基(ぎょうき)

行基とは、奈良時代に活躍した高僧です。百済系渡来人の子孫として、和泉国(大阪府)に生まれました。諸国をまわって人々に仏教を広め、朝廷から民衆をまどわすとして弾圧されましたが、後に許され、東大寺の大仏建立にあたっては弟子や民衆を動員して協力し、聖武天皇から日本最初の大僧正(だいそうじょう)に任じられました。また、信者の力を借りて各地に池をほり、道路や橋をつくるなど社会事業にも尽くしたことから、行基菩薩とたたえられました。生誕 天智天皇7年(668年)命日 天平21年2月2日(749年2月23日)<< 戻る
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大仏造立の詔

743年、大仏造立の詔。<< 戻る
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東大寺-奈良県奈良市

・東大寺 華厳宗 奈良県奈良市雑司町406-1・対馬 ⇒ 畿内 大和 総国分寺(東大寺) ⇒ 山城天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明四天王護国之寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる。(リンク先より) << 戻る
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国分寺・国分尼寺建立の詔

天平13年(741)、聖武天皇により国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられました。また、これに伴い、金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされています。<< 戻る
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華厳宗が伝えられる

736年、華厳宗第3祖法蔵(開祖は杜順(557年-640年)、第2祖智儼(602年-668年))門下の審祥によって華厳宗は伝えられました。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)されました。鎌倉仏教期には、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然による教学の確立がなされています。法相宗と並ぶ、南都六宗の一つで、「十三宗五十六派」の一つです。華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏と一体になっています。菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」、善...
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聖武天皇と東大寺 – 前身寺院・金鍾山寺建立

奈良時代は、政変・かんばつ・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代でした。このような混乱の中、神亀元年(724)2月、聖武天皇が24歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀4年(727)10月5日に誕生します。ところが、神亀5年(728)9月13日、基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折されました。聖武天皇は、すぐに親王の菩提を追修するため金鍾山寺を建立(同年11月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させました。天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これ...