室町時代

人物

尋尊(じんそん)

尋尊とは、室町時代中期から戦国時代にかけての奈良興福寺の僧。父は一条兼良。母は中御門宣俊の娘。興福寺180世別当。大乗院第20代門跡。奈良長谷寺・橘寺・薬師寺の別当をも兼任した。応仁の乱(1467年-1477年)では父兼良の日記『藤河ノ記』を兵火から守った(『群書類従』所収)。また、大乗院に伝わる日記類を編纂し、大乗院日記目録を作成した。「尋尊大僧正記」は興福寺に関することだけではなく、この時代を知る上での必須の資料である。この日記と後に門跡を務めた政覚・経尋の日記をあわせて『大乗院寺社雑事記』と呼び、室町時代研究の根本史料の一つとなっている。生誕 永享2年8月7日(1430年8月25日)命日...
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蓮如(れんにょ)

蓮如とは、室町時代の浄土真宗の僧です。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首を務めました。大谷本願寺住職でもあります。諱は兼壽で、院号は信證院です。法印権大僧都、本願寺中興の祖とも呼ばれます。また、本願寺蓮如とも呼ばれます。浄土真宗では、蓮如上人と尊称されています。1882年に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されました。蓮如は、応永22年(1415)に本願寺第七世・存如の長男として京都に生まれました。母は蓮如が6歳の時に事情があって本願寺を去りました。その時の形見として持っていったのが『 鹿子の御影』(かのこのみえい)です。永享3年(1431)、蓮如は天台宗門跡寺院の青蓮院において...
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富樫政親(とがしまさちか)- 加賀一向一揆

富樫政親とは、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。長禄2年(1458年)、加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、富樫政親は家臣団に擁されて奪回に尽力しました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍につきました。ところが、弟・幸千代が山名宗全方である西軍について敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争うことになります。文明5年(1473年)、真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ弟・幸千代に富樫政親は敗れて加賀を追われます。しかし、浄土真宗本願寺派門徒などの援助・加賀国内における武士団の支持を得て、弟・幸千代を加賀から追い出し再び当...
人物

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)

室町時代の臨済宗大徳寺派の僧侶で詩人。説話「一休さん」のモデルとしても知られます。号に狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、国景(こっけい)があり、諱を宗純(宗順)といいます。出生地は京都で、後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。母親の出自は不明ですが、後小松天皇説に沿えばその官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。幼名は、後世史料によると千菊丸とされています。6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門し、周建の名前を授かり...
仏教を学ぶ

『正信偈』(しょうしんげ)

『正信偈』とは略称で、正式には『正信念仏偈』(しょうしんねんぶつげ)といい、親鸞聖人の著書『教行信証』の「行巻」の末尾にある偈文です。全ての人に同じ心になってもらいたいという親鸞聖人の想いから、七言60行120句の偈文にまとめられたものです。浄土真宗で『正信偈』をお勤めするようになったのは、本願寺第8世蓮如上人(1415~1499年)が越前の吉崎(福井県あわら市吉崎)にいた文明5年(1473年)からです。それまでの浄土真宗では、善導大師の『六時礼讃』を日常のお勤めとしていたのを改め、親鸞聖人の『正信偈』と『三帖和讃』とを合わせて木版で印刷・出版し、僧侶・門徒がともに朝夕の勤行として読誦するよう...
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満済(まんさい)- 『満済准后日記』(まんさいじゅごうにっき)

満済とは、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺の僧侶。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后、法身院准后、三宝院満済としても知られます。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られます。また、具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいた『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝わり(現在は醍醐寺と国立国会図書館蔵。共に、重要文化財)、当時の政治情勢が克明に記録していることから、室町時代の極めて重要な史料となっています。父は関白二条兼基の子・良冬を始祖とする従一位・権大納言今小路基冬。母は聖護院房官法印源意...
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絶海中津(ぜっかいちゅうしん)

絶海中津とは、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数あります。 中津は諱。足利義満・足利義持などの二代の将軍をはじめ、多くの有力な守護大名、また朝廷においても伏見宮栄仁親王らの帰依を受け、臨済宗夢窓派の発展に寄与しました。四六文の作法を明から日本へ伝え、五山禅林に流布させました。後小松天皇や称光天皇らも中津に帰依した人物の一人であり、その死後に前者は仏智広照国師、後者は聖国師という勅命による追贈を行ないました。また、『絶海和尚語録』や『蕉堅藁』(詩文集)などの著作が伝わっています。生誕 建武元年11月13日(1334年12月9日...
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善如(ぜんにょ)

南北朝時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第4世宗主・真宗大谷派第4代門首。大谷本願寺住職。諱は俊玄。法印権大僧都。父は従覚(第3世覚如の次男)。第5世綽如は子。生誕 正慶2年2月2日(1333年2月24日)命日 康応元年2月29日(1389年4月4日)<< 戻る
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義堂周信(ぎどうしゅうしん)

義堂周信とは、南北朝時代から室町時代の臨済宗の僧侶です。「義堂」は道号、「周信」は法名であり、別に「空華道人」とも号します。著作に『義堂和尚語録』『空華集』『空華日用工夫略集』など多数あります。高知県高岡郡の生まれで、1338年(14歳)、剃髪し、はじめ台密を学びます、後に禅宗に改宗し上京し夢窓疎石の門弟となり、このとき「周信」と安名されました。1359年(延文4年)に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し、1380年(康暦2年)まで滞在しました。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めました。この...
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夢窓疎石(むそうそせき)

鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)。宇多天皇9世孫を称する。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元(中国)の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖。後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)...
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虎関師錬(こかんしれん)

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は師錬、字は虎関。父は藤原左金吾校尉で、母は源氏。玄恵の兄弟とする説もある。京都の出身。諡号は本覚国師。漢詩・漢文に優れ、五山文学の代表者の一人である。著作に『元亨釈書』の他、『楞伽経』の注釈『仏語心論』、詩文集『済北集』、語録『十禅支録』、日本最初の韻書『聚分韻略』などがある。生誕 弘安元年4月16日(1278年5月9日)命日 興国7年/貞和2年7月24日(1346年8月11日)<< 戻る
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

第96代天皇および南朝初代天皇。諱は尊治。大覚寺統の天皇。京都で2度の討幕(正中の変、元弘の変)を企てた後醍醐天皇は、正慶元年(1332)鎌倉幕府に隠岐に流されました。しかし、楠木正成や後醍醐天皇の子、護良親王らによる討幕運動が続くと、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、討幕を呼びかけます。足利尊氏、新田義貞らが正慶2年(1333)に鎌倉幕府を滅ぼすと、後醍醐天皇は帰京し、幕府・摂関を廃して天皇による親政「建武の新政」を開始します。しかし親政は破綻し、後ろ盾となっていた足利尊氏の離反に遭ったため、後醍醐天皇は比叡山に2度逃れますが、ついに京で幽閉されてしまいます。建武2年(1336)、尊氏は持明院統の光...