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山田耕筰(やまだこうさく)

日本の作曲家、指揮者。山田耕作とも表記します。生誕 1886年(明治19年)6月9日命日 1965年(昭和40年)12月29日響流院釈耕筰<< 戻る
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柳田國男(やなぎたくにお)

民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章。 「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。生誕 1875年〈明治8年〉7月31日命日 1962年〈昭和37年〉8月8日永隆院殿顕誉常正明国大居士<< 戻る
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山本五十六(やまもといそろく)

日本海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。海軍兵学校32期生。生誕 1884年(明治17年)4月4日命日 1943年(昭和18年)4月18日大義院殿誠忠長陵大居士<< 戻る
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山川健次郎(やまかわけんじろう)

明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。生誕 1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)命日 1931年(昭和6年)6月26日希不踰院殿慎誉平久大居士<< 戻る
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山県有朋(やまがたありとも)

日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。常用字体は山県有朋。内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。生誕 1838年6月14日(天保9年閏4月22日)命日 1922年(大正11年)2月1日報国院釈高照含雪大居士<< 戻る
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安田善次郎(やすだぜんじろう)

富山県富山市出身の実業家。茶人。幼名は岩次郎。号は松翁。安田財閥の祖。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付が行われたことは世間に知られてはいなかった。東京大学の講堂は死後に安田善次郎を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。富山藩下級武士(足軽)の安田善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出る。最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めた...
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山内容堂/豊信(やまうちようどう/とよしげ)

幕末の外様大名。土佐藩15代藩主。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著の長男。母は側室の平石氏。生誕 文政10年10月9日(1827年11月27日)命日 明治5年6月21日(1872年7月26日)<< 戻る
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山田検校(やまだけんぎょう)

江戸時代中期から後期にかけて活躍した筝曲音楽家である。筝曲山田流の祖として知られている。本姓は三田。諱は斗養一。号は勝善、幽樵等。山田は母方の旧姓。生誕 1757年6月14日(宝暦7年4月28日)命日 1817年5月25日(文化14年4月10日)覚凉院殿一誉饗和斗養居士<< 戻る
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柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。生誕 万治元年12月18日(1659年1月10日)命日 正徳4年11月2日(1714年12月8日)永慶寺保山元養<< 戻る
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八百屋於七(やおやおしち)

江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。八百屋お七。墓所の円乗寺にあるお七地蔵堂の八百屋於七地蔵尊は現在、縁結びのパワースポットとしても知られている。生誕 寛文8年(1668年)命日 天和3年3月28日(1683年4月24日)妙栄禅定尼<< 戻る
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柳生十兵衛 (やぎゅうじゅうべえ/三厳/みつよし)

江戸時代前期の武士、剣豪、旗本。初名は七郎、諱は三厳、通称は十兵衛。 大和国柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南を務めた剣豪・柳生宗矩の子。始め徳川家光に小姓として仕えたが、主君の勘気に触れて出仕停止となり、後に許されて書院番を務める。生誕 慶長12年(1607年)命日 慶安3年3月21日(1650年4月21日)長岩院殿金甫宗剛大居士<< 戻る
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柳生宗矩(やぎゅうむねのり)

江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。生誕 元亀2年(1571年)命日 正保3年3月26日(1646年5月11日)西江院殿前但州太守大通宗活大居士<< 戻る
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柳生宗厳(やぎゅうむねよし/むねとし/そうごん/宗嚴)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。新陰流の兵法家。柳生家厳の子。百官名は但馬守。諱は宗厳。通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門。入道してからは石舟斎と号した。子に柳生厳勝、柳生宗矩、柳生宗章ほか。生誕 大永7年(1527年)命日 慶長11年4月19日(1606年5月25日)芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士<< 戻る
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山内一豊(やまうちかずとよ)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門。後に康豊の長男・忠義を養子とした。生誕 天文14年(1545年)もしくは、天文15年(1546年)命日 慶長10年9月20日(1605年11月1日)大通院殿心峯宗伝大居士<< 戻る
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織田信長 比叡山延暦寺の焼き討ち

1571年、織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、一向一揆をしずめる。<< 戻る
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山崎宗鑑(やまざきそうかん)

戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の志那町。近江国栗太郡志那村(後の常盤村、現草津市志那町)に生まれ、幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え、一休宗純とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられている。義尚が鈎の陣で没し(延徳元年、1489年)、無常を感じ出家した。摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名...
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山城の国一揆

1485年、山城の国一揆が起こる。山城国(京都府)で土着の武士と農民が、国内で争っていた守護大名を追い出し、8年間自治を行った。<< 戻る
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山名宗全(やまなそうぜん/持豊/もちとよ)

室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。生誕 応永11年5月29日(1404年7月6日)命日 文明5年3月18日(1473年4月15日)達碧院殿最高宗峯大居士<< 戻る
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薬山惟儼(やくさんいげん)

中国唐の時代の禅僧。絳州新絳県の出身。石頭希遷無際大師に就いて嗣法。弟子には雲巌曇晟がいる。諡は弘道大師。17歳で潮陽西山の慧照禅師によって出家し、29歳で衡岳寺の希操律師から具足戒を受け、石頭希遷無際大師に就いて嗣法。非思量の坐禅で知られる・「薬山弘道大師、ちなみに無際大師の指示によりて江西大寂禅師に参問す、三乗十二分教、某甲ほぼその宗旨をあきらむ。如何是祖師西来意(如何ならんか是れ祖師西来意)。かくのごとくとふに大寂禅師いはく、有時教伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむ)、有時不教伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしめず)。有時教伊揚眉瞬目者是(ある時は伊をして眉を揚...
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スッタニパータ【第3 大いなる章】8、矢

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ヤソーダラー(耶輸陀羅)- お釈迦様が出家する以前の妃

ヤソーダラーとは、お釈迦様が出家する以前、ゴータマ・シッダッタ太子だった時の妃です。結婚してラーフラ(羅睺羅/密行第一)を産みました。漢訳仏典では「耶輸陀羅」(やしゅだら)と訳されます。巴語でヤソーダラーといい、梵語でヤショーダラーという表記もあります。お釈迦様が悟りを得て仏となった後に、比丘尼になりました。史料により、家族構成などが違っているようで、正否がはっきりしない事柄も多いです。梵語(サンスクリット語) Yaśodharā ヤショーダラー巴語(パーリ語) Yasodharā ヤソーダラー生誕 命日 << 戻る
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ヤシャス(耶舎)

ヤシャス Yaśas(巴) 耶舎(やしゃ)、ヤサ Yaśas(梵)、音写で耶舎陀、耶輸陀とも、意訳で名聞、名称とも記述されます。ヤシャスは、バラナシ(ベナレス)の長者の子で何不自由ない日々を送っていましたが、ある時、そんな生活が墓場にいるようだと感じ、家出しサールナート(鹿野苑)にいたところ、五比丘への初転法輪を終えたお釈迦様の教えを受ける機会を得て、すぐに出家して6番目の弟子となりました。ヤシャスの父は息子を捜しに来たところ、お釈迦様の話を聞き、ヤシャスの父も帰依して、最初の在家男性信者になりました。お釈迦様と五比丘を家に招いてその教えをその家族が聞くと、ヤシャスの母と妻も最初の在家女性信者...