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源頼朝(みなもとのよりとも)

平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。 清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。生誕 久安3年4月8日(ユリウス暦1147年5月9日、先発グレゴリオ暦1147年5月16日)命日 建久10年1月13日(ユリウ...
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源義経(みなもとのよしつね)

源義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。仮名は九郎。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った...
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源義仲(みなもとのよしなか)

平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。生誕 久寿元年(1154年)命日 寿永3年1月20日(1184年3月4日)徳音院義山宣公<< 戻る
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不如蜜多(ふにょみった)

婆舎斯多に就いて嗣法。弟子には般若多羅がいる。生誕 命日 << 戻る
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伏駄蜜多(ふだみった)

インドの仏教僧。仏陀難提に就いて嗣法。弟子には婆栗湿縛がいる。生誕 命日 << 戻る
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婆須蜜多(ばしゅみった)

インドの仏教僧。弥遮迦に就いて嗣法。弟子には仏陀難提がいる。生誕 命日 << 戻る
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弥遮迦(みしゃか)

インドの仏教僧。提多迦に就いて嗣法。弟子には婆須蜜多がいる。生誕 命日 << 戻る
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ミリンダ王の問い

紀元前2世紀後半にアフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス1世(ミリンダ王/弥蘭王/弥蘭陀王)とインド仏教の長老であるナーガセーナ(那先/那伽犀那/龍軍)との間で紀元前160年頃に3日間行われた問答で、王は最後には仏教信者になる。パーリ語経典の『ミリンダ王の問い』、漢語経典の『那先比丘経』として伝えられている。初日はミリンダ王がナーガセーナを訪ね、2日目と3日目はナーガセーナが王宮を訪ね問答を行う。初日の問答の始まりはこんな感じです。あなたの名前を教えてください王よ、私はナーガセーナと世間に呼ばれているけど、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称で...