總持寺-神奈川県横浜市鶴見区

人物

アントニオ猪木(アントニオいのき)

プロレスラー、実業家、政治家。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。菩提寺は曹洞宗大本山の總持寺。生誕 1943年(昭和18年)2月20日命日 2022年(令和4年)10月1日戒名 闘覚院機魂寛道居士(とうがくいんきこんかんどうこじ)<< 戻る
仏教を学ぶ

祖堂(そどう)

仏教寺院において一宗の開祖・祖師や寺院の開山・開基の像や位牌を祀った堂のことを祖堂といいます。宗派によって、御影堂、開山堂、大師堂、法華堂などと呼ばれる場合があります。いずれにしても同じ宗派であっても、伽藍が整備された年代や寺院規模などにより違いがあります。祖堂であるからこの形で建てられているという見分けは出来ません。例にあげた總持寺(神奈川県)の大祖堂は、祖堂と法堂(はっとう)を兼ねた本堂客殿で、千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及び、法要修行の場ともなっています。(大祖堂 總持寺)<< 戻る
人物

板橋興宗(いたばしこうしゅう)

曹洞宗の僧侶。閑月即眞禅師。大本山總持寺独住23世(貫首)。曹洞宗管長、總持寺祖院住職、大乗寺山主、御誕生寺住職を歴任。宮城県多賀城市出身。1927年(昭和2年)、宮城県多賀城市の農家の長男として生まれる。海軍による買い上げに遭い、塩竈市に移住し、旧制仙台第一中学校を経て、1944年(昭和19年)に海軍兵学校76期舞鶴分校機関科に入校。第二次世界大戦の敗戦後、栄養失調により肋膜炎で入院する。退院後、仙台工業専門学校に入るも退学し、1949年(昭和24年)に新制東北大学文学部宗教学科に第1期生として進学、石津照璽に師事。在学中に同級生の片野達郎(後に、東北大学名誉教授)の勧めで仙台市の輪王寺に下...
中島法雄

瑞世に行ってきました

曹洞宗の僧侶はいくつもの段階が厳格に決まっています。そして、ある程度たつと瑞世(ずいせ)という儀式をする為に横浜鶴見の大本山總持寺と福井の大本山永平寺の2箇所に拝登(お参り)します。そこで大本山を開かれた御開山拝登、並びに祝祷諷経(しゅくとうふぎん)と瑞世上供諷経(ずいせじょうぐふぎん)という朝の法要の導師を務めるこが瑞世という儀式の主な部分です。ですから、瑞世は一夜の住職、または一朝の住職といわれます。これによって寺院の住職になるための資格を両大本山が認めてくださったことになります。ですから、この儀式は一生に一回のものです。3月23日午前中に寺を出発し、大阪より特急列車に乗り福井へ。福井駅に...
仏教を学ぶ

伝光会摂心(でんこうえ・せっしん)

横浜鶴見の大本山總持寺では伝光会摂心会が毎年6月にが行われますが、2005年は6月13日から17日までの5日間です。「起きて半畳、寝て一畳」と言われる僧堂において、修行僧は一切の実務から離れて起居を共にし、一日中、只管(ただひたすらに)坐禅に打ち込みます。伝光とは總持寺御開山瑩山禅師が撰述された伝光録にちなむもので、お釈迦様の教えが光のように真っ直ぐに伝わるさまをあらわします。53代の仏祖を経て瑩山禅師に受け継がれた教え、伝光を学び、坐禅を修行することに励む集中修行期間が伝光会摂心会です。春に入門してきたばかりの修行僧にとっては試練の時です。足が痛くなり、立ち上がってもフラフラしてしまいます。...
寺院

衆寮(しゅりょう)/看読寮(かんどくりょう)

衆寮とは、禅宗寺院の境内にある僧堂とは別にある学問所のことで、雲水はそこで経典や語録を読み心を磨きます。看読寮、看読所ともいいます。(總持寺-神奈川県横浜市鶴見区の衆寮/扁額「古教照心」は、祖師方の教えの光によって心を照らせ、心をみがけ、という意味。現在は一般参禅者の坐禅堂として利用されている。)・「爾時寛元二年甲辰二月十五日在越州吉田県吉峰精舎示衆 弘安二年六月廿三日在永平禅寺衆寮書写之」(「正法眼蔵」如来全身)※正法眼蔵が永平寺の衆寮で書写されていたことが分かる記述で、学問所として機能していたことが分かります。・「ある禅師の会に一僧あり。金像の仏と、また仏舎利とを崇め用いて、衆寮等にも有っ...
人物

石原裕次郎(いしはらゆうじろう)

俳優、歌手。石原プロモーション創立者で、初代代表取締役社長兼会長。代表的な出演映画『太陽の季節』『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』『銀座の恋の物語』代表的な出演テレビドラマ『太陽にほえろ!』『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズ横浜鶴見の大本山總持寺に墓所があり、多くのファンがお参りに訪れる。生誕 1934年(昭和9年)12月28日命日 1987年(昭和62年)7月17日陽光院天真寛裕大居士<< 戻る
寺院

總持寺-神奈川県横浜市鶴見区

・諸嶽山總持寺 曹洞宗 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1−1元亨元年(1321)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と告げて、姿を消されたというのです。(中略)律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。 明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。現在の總持寺は横浜市の郊外、前に東京湾と房総半島を望み、...
仏教を学ぶ

總持寺は官寺となり一宗の大本山となる

元亨2(1322)年、後醍醐天皇より瑩山禅師に信仰上の10種の勅問を下されました。これに対する禅師の奉答により、同年8月28日、總持寺は「曹洞出世の道場に補任」されて官寺となり、一宗の大本山たることが認められ、勅定によって曹洞宗の教団であることを、宗の内外に公称するようになりました。<< 戻る
仏教を学ぶ

瑩山禅師、諸嶽山總持寺へ

元亨元(1321)年、定賢律師の請いにより能登郡櫛比庄(現在の石川県輪島市)の諸嶽観音堂を譲り受け、寺名を諸嶽山總持寺(そうじじ)と改めました。<< 戻る
人物

石頭希遷(せきとうきせん)

中国唐の時代の禅僧。端州高要県の出身。はじめ大鑑慧能のもとで学ぶもその遷化により兄弟子の青原行思に就いて嗣法。弟子には薬山惟儼、天皇道悟、丹霞天然がいる。諡は無際大師。著作に「参同契」。曹洞宗大本山總持寺には石頭のものとされるミイラが安置されている。生誕 久視元年(700年)命日 貞元6年12月25日(791年2月2日)<< 戻る