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蓮如(れんにょ)

蓮如とは、室町時代の浄土真宗の僧です。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首を務めました。大谷本願寺住職でもあります。諱は兼壽で、院号は信證院です。法印権大僧都、本願寺中興の祖とも呼ばれます。また、本願寺蓮如とも呼ばれます。浄土真宗では、蓮如上人と尊称されています。1882年に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されました。蓮如は、応永22年(1415)に本願寺第七世・存如の長男として京都に生まれました。母は蓮如が6歳の時に事情があって本願寺を去りました。その時の形見として持っていったのが『 鹿子の御影』(かのこのみえい)です。永享3年(1431)、蓮如は天台宗門跡寺院の青蓮院において...
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日野富子(ひのとみこ)

室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍・足利義政の正室。父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。日野富子の活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評された。夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていないことから「天下の悪妻」とも呼ばれる。一方で、火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていた。富子の遺産は7万貫(約70億円)に達していたという。学問にも熱心であり、関白・一条兼良に源氏物語の講義を受けている。将...
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足利義政(あしかがよしまさ)

は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は義成(よししげ)。なお、銀閣寺(慈照寺)の由来は義政の戒名「慈照院」から名付けられています。生誕 永享8年1月2日(1436年1月20日)命日 延徳2年1月7日(1490年1月27日)慈照院殿准三宮贈一品喜山道慶大禅定門<< 戻る
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桃源瑞仙(とうげんずいせん)

室町時代の臨済宗の僧。京都相国寺の第 80世。著作『百衲襖』『史記抄』『蕉雨稿』。生誕 永享2(1430)年6月17日命日 延徳元(1489)年10月28日<< 戻る
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足利義尚(あしかがよしひさ)

室町時代後期の室町幕府第9代将軍。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、晩年に義煕と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の名で知られる。応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職を巡る対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。生誕 寛正6年11月23日(1465年12月11日)命日 長享3年3月26日(1489年4月26日)常徳院悦山道治<< 戻る
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富樫政親(とがしまさちか)- 加賀一向一揆

富樫政親とは、室町時代後期の武将・守護大名。富樫氏21代当主。加賀国守護。長禄2年(1458年)、加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を取り戻すため、富樫政親は家臣団に擁されて奪回に尽力しました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍につきました。ところが、弟・幸千代が山名宗全方である西軍について敵対したため、政親は家督をめぐって弟と争うことになります。文明5年(1473年)、真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ弟・幸千代に富樫政親は敗れて加賀を追われます。しかし、浄土真宗本願寺派門徒などの援助・加賀国内における武士団の支持を得て、弟・幸千代を加賀から追い出し再び当...
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太田道灌(おおたどうかん)

室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。生誕 永享4年(1432年)命日 文明18年7月26日(1486年8月25日)大慈寺殿心円道灌大居士香月院殿春苑静勝道灌大居士<< 戻る
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一休宗純(いっきゅうそうじゅん)

室町時代の臨済宗大徳寺派の僧侶で詩人。説話「一休さん」のモデルとしても知られます。号に狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、国景(こっけい)があり、諱を宗純(宗順)といいます。出生地は京都で、後小松天皇あるいは足利義満の血を引くともいわれています。母親の出自は不明ですが、後小松天皇説に沿えばその官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ、三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。幼名は、後世史料によると千菊丸とされています。6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門し、周建の名前を授かり...
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細川勝元(ほそかわかつもと)

室町時代中期の武将・守護大名。室町幕府16・18・21代管領。土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国守護。細川京兆家11代当主。応仁の乱の東軍総大将として知られている。生誕 永享2年(1430年)命日 文明5年5月11日(1473年6月6日)龍安寺殿宗寶仁榮大居士<< 戻る
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山名宗全(やまなそうぜん/持豊/もちとよ)

室町時代の武将、守護大名。家系は新田氏庶流の山名氏。室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。山名時熙の3男で、母は山名氏清の娘。諱は持豊で、宗全は出家後の法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。生誕 応永11年5月29日(1404年7月6日)命日 文明5年3月18日(1473年4月15日)達碧院殿最高宗峯大居士<< 戻る
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清巌正徹(せいがんしょうてつ)

備中(岡山県)出身の臨済宗僧侶。京都東福寺で書記をつとめる。和歌を冷泉為尹(れいぜい ためまさ)らに学び、多作家として知られる。足利義政に「源氏物語」を講じ、連歌師にも影響をあたえた。通称は徹書記。号は松(招)月庵。家集に「草根集」、歌論書に「正徹物語」など。「初心の程は無尽に稽古すべきなり」(「正徹物語」)生誕 永徳元/弘和元(1381)年命日 長禄3(1459)年5月9日<< 戻る
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満済(まんさい)- 『満済准后日記』(まんさいじゅごうにっき)

満済とは、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺の僧侶。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后、法身院准后、三宝院満済としても知られます。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られます。また、具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいた『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝わり(現在は醍醐寺と国立国会図書館蔵。共に、重要文化財)、当時の政治情勢が克明に記録していることから、室町時代の極めて重要な史料となっています。父は関白二条兼基の子・良冬を始祖とする従一位・権大納言今小路基冬。母は聖護院房官法印源意...
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足利義満(あしかがよしみつ)

室町時代前期の室町幕府第3代将軍である。父は第2代将軍・足利義詮、母は側室の紀良子。南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。生誕 正平13年/延文3年8月22日(1358年9月25日)命日 応永15年5月6日(1408年5月31日)鹿苑院天山道義<< 戻る
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絶海中津(ぜっかいちゅうしん)

絶海中津とは、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数あります。 中津は諱。足利義満・足利義持などの二代の将軍をはじめ、多くの有力な守護大名、また朝廷においても伏見宮栄仁親王らの帰依を受け、臨済宗夢窓派の発展に寄与しました。四六文の作法を明から日本へ伝え、五山禅林に流布させました。後小松天皇や称光天皇らも中津に帰依した人物の一人であり、その死後に前者は仏智広照国師、後者は聖国師という勅命による追贈を行ないました。また、『絶海和尚語録』や『蕉堅藁』(詩文集)などの著作が伝わっています。生誕 建武元年11月13日(1334年12月9日...
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細川頼之(ほそかわよりゆき)

南北朝時代から室町時代初期にかけての守護大名、室町幕府管領。官位は従四位下、始め武蔵守、相模守。細川氏の祖義季から直系で数えて6代目に当たる。 観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。生誕 元徳元年(1329年)命日 元中9年/明徳3年3月2日(1392年3月25日)永泰院殿桂巌常久大居士<< 戻る
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善如(ぜんにょ)

南北朝時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第4世宗主・真宗大谷派第4代門首。大谷本願寺住職。諱は俊玄。法印権大僧都。父は従覚(第3世覚如の次男)。第5世綽如は子。生誕 正慶2年2月2日(1333年2月24日)命日 康応元年2月29日(1389年4月4日)<< 戻る
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義堂周信(ぎどうしゅうしん)

義堂周信とは、南北朝時代から室町時代の臨済宗の僧侶です。「義堂」は道号、「周信」は法名であり、別に「空華道人」とも号します。著作に『義堂和尚語録』『空華集』『空華日用工夫略集』など多数あります。高知県高岡郡の生まれで、1338年(14歳)、剃髪し、はじめ台密を学びます、後に禅宗に改宗し上京し夢窓疎石の門弟となり、このとき「周信」と安名されました。1359年(延文4年)に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し、1380年(康暦2年)まで滞在しました。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めました。この...
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足利尊氏(あしかがたかうじ)

鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の武将。鎌倉幕府の御家人。河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)、足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。なお、戒名における院殿号のはじまりは足利尊氏にはじまるといわれている。上皇や女院など皇族に相当する院号を避けて等持院殿という諡号を用いたことから、院殿号が戒名の一種として用いられるようになった。生誕 嘉元3年7月27日(ユリウス暦1305年8月18日、グレゴ...
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足利直義(あしかがただよし)

鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 室町幕府草創期の実質的な幕政の最高指導者。中先代の乱では後醍醐天皇の子息で前征夷大将軍の護良親王を殺害した。実兄・足利尊氏との権力闘争に敗れ東国に逃れたが、鎌倉に幽閉され毒殺ともされる急死を遂げた(観応の擾乱)。生誕 徳治元年(1306年)命日 正平7年2月26日(1352年3月12日)大休寺古山恵源<< 戻る
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夢窓疎石(むそうそせき)

鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)。宇多天皇9世孫を称する。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元(中国)の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖。後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)...
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高師直(こうのもろなお)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、官僚、政治家、歌人。正式な名乗りは、高階師直(たかしな の もろなお)。鎌倉幕府有力御家人足利氏執事、建武政権雑訴決断所三番奉行人・武者所および窪所寄人、北朝武蔵守、室町幕府初代および第三代執事(室町幕府管領の前身)・上総国守護・武蔵国守護・引付頭人。生誕 命日 正平6年/観応2年2月26日(1351年3月24日)真如寺殿道常大禅定門<< 戻る
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吉田兼好(よしだけんこう)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本名は卜部兼好。卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また、出家したことから兼好法師(けんこうほうし)あるいは単に兼好とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書では「兼好法師」と表記される。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。私家集に『兼好法師家集』。生誕 弘安6年(1283年)頃?命日 観応元年/正平5年4月8日(1350年5月14日)※諸説あり。<< 戻る
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虎関師錬(こかんしれん)

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は師錬、字は虎関。父は藤原左金吾校尉で、母は源氏。玄恵の兄弟とする説もある。京都の出身。諡号は本覚国師。漢詩・漢文に優れ、五山文学の代表者の一人である。著作に『元亨釈書』の他、『楞伽経』の注釈『仏語心論』、詩文集『済北集』、語録『十禅支録』、日本最初の韻書『聚分韻略』などがある。生誕 弘安元年4月16日(1278年5月9日)命日 興国7年/貞和2年7月24日(1346年8月11日)<< 戻る
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

第96代天皇および南朝初代天皇。諱は尊治。大覚寺統の天皇。京都で2度の討幕(正中の変、元弘の変)を企てた後醍醐天皇は、正慶元年(1332)鎌倉幕府に隠岐に流されました。しかし、楠木正成や後醍醐天皇の子、護良親王らによる討幕運動が続くと、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、討幕を呼びかけます。足利尊氏、新田義貞らが正慶2年(1333)に鎌倉幕府を滅ぼすと、後醍醐天皇は帰京し、幕府・摂関を廃して天皇による親政「建武の新政」を開始します。しかし親政は破綻し、後ろ盾となっていた足利尊氏の離反に遭ったため、後醍醐天皇は比叡山に2度逃れますが、ついに京で幽閉されてしまいます。建武2年(1336)、尊氏は持明院統の光...
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新田義貞(にったよしさだ)

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇の綸旨(蔵人が天皇の命を受けて発給した文書)を受けた義貞は、幕府が派遣した楠木正成追討軍を密かに抜け出て帰国しました。義貞は、幕府徴税使を斬って討幕の決意を固め、5月8日、生品明神(新田町市野井)の社前に討幕の兵を挙げ、鎌倉攻めを開始しました。義貞軍は、小手指原(埼玉県所沢市)・久米川(東京都東村山市)・分倍河原(東京都府中市)での戦いを経て、同月18日、兵を巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂の三手に分けて鎌倉市中攻撃を始めましたが、幕府の守りも固く、攻防一進一退を繰り返す中...
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楠木正成(くすのきまさしげ)

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。 元弘の乱で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らと共に天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家と共に南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄...
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日興(にっこう)

鎌倉時代の僧侶。日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる。日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精『家中抄』)。日興は伊東において日蓮に給仕しただけでなく、周辺への弘教にも努力し、熱海の真言僧を折伏して日蓮の門下とした(日亨『富士日興上人詳伝』)。弘長3年(1263年)2月、日興は流罪を赦免された日蓮に従って鎌倉に入った。鎌倉での日蓮の活動拠点は松葉ヶ谷の草庵であり、日興もそこで日興より前に日蓮門下となっていた日昭・ 日朗らと共に日蓮に仕えながら日蓮の教化を受...
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京極為兼(きょうごくためかね)

鎌倉時代後期の公卿・歌人。名前の読みを「ためかぬ」とする説もある。 生涯. 京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世と共に祖父為家から和歌を学ぶ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる。生誕 建長6年(1254年)命日 元徳4年/元弘2年3月21日(1332年4月16日)<< 戻る
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瑩山禅師(けいざんぜんじ)- 瑩山紹瑾(じょうきん)

瑩山紹瑾とは、一般には瑩山禅師と呼ばれる鎌倉時代の僧侶で、日本の曹洞宗教団では第四祖です。日本曹洞宗開祖の道元を高祖大師、瑩山を太祖大師と呼びます。諡号は佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。『伝光録』、『瑩山清規』などを著わしています。瑩山は、1268年11月21日(陰暦では10月8日)に越前多称邑(たねむら)(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生家で生まれました。道元が亡くなってから15年後のことです。幼名を行生(ぎょうしょう)といいました。観世音菩薩を信仰する母親のもとで育てられた瑩山は、1275年、8歳の時に永平寺に入り、徹通義介禅師の下で沙弥となり修行を始めました。1280年、13歳の時に...
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無住(むじゅう)

鎌倉時代後期の僧。字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた。 梶原氏の出身と伝えられる。『沙石集』は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全10巻となった。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり、1262年(弘長2年)に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し、80歳の時、寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、「話芸の祖」ともされる。生誕 1227年1月17日(嘉禄2年12月...
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北条貞時(ほうじょうさだとき)

鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。生誕 文永8年12月12日(1272年1月14日)命日 応長元年10月26日(1311年12月6日)最勝園寺殿覚賢<< 戻る
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忍性(にんしょう)

鎌倉時代の律宗(真言律宗)の僧侶。 房名(通称)は良観。良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)とも呼ばれます。 貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られます。建保5年(1217)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くした母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話(『元亨釈書』等)には、慈悲深く意志の強い忍性の人柄がうかがえます。後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社...