buddhism

人物

徳川家宣(とくがわいえのぶ)

江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊。生誕 寛文2年4月25日(1662年6月11日)命日 正徳2年10月14日(1712年11月12日)文昭院殿贈正一位大相国公文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士<< 戻る
仏教を学ぶ

達身寺-兵庫県丹波市

・達身寺 曹洞宗 兵庫県丹波市氷上町清住259この寺は、行基菩薩によって開かれたと言われ、宗派は天台か真言系であっただろうと思われる。寺名は不明である。正徳二年(一七一二)に竹雲堤山和尚(ちくうんていざんおしょう)の発願により師である円通寺(氷上町御油)二十五世大庵清鑑和尚(だいあんせいかんおしょう)を開山とし、禅宗の中の曹洞宗として火を灯し現在に至っている。又、寺名についていは、十九山の達身堂(たるみどう)を本堂としてこの地に移した為、十九山達身寺(じゅうくさんたっしんじ)と名付けられたのである。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

西法寺-秋田県横手市

・西法寺 曹洞宗 秋田県横手市平鹿町上吉田吉田51正徳二年(1712年) 六世安山楚宅代に、安叟派(海蔵寺を本寺とする末・孫寺)に対して報恩山善福寺を門首と定め、本寺の代行を命ずる文書が届く。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

知恩院、「華頂山」の勅額

1710年(宝永7年)、霊元上皇宸翰「華頂山」の勅額を賜う。<< 戻る
仏教を学ぶ

万行寺-長野県佐久市

・万行寺 浄土真宗本願寺派 長野県佐久市下平尾461-1寺院名 万行寺(まんぎょうじ)山号 聞宝山(もんぽうざん)聞了により宝永年間に開基されたことに由来 開基300年を機に付けられる由縁 現存する寺史によりますと、万行寺の始まりは、1709(宝永6)年10月15日、聞了により開基とされています。2009(平成21)年で開基300年になりました。(リンク先より) << 戻る
人物

徳川綱吉(とくがわつなよし)

上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代征夷大将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。「生類憐みの令」生誕 正保3年1月8日(1646年2月23日)命日 宝永6年1月10日(1709年2月19日)常憲院殿贈正一位大相国公<< 戻る
人物

関孝和(せきたかかず/こうわ)

江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。字は子豹、自由亭と号した。算木を使って高次方程式を解く天元術に改良を加えて筆算式の高等代数学である点竄術を発明し、数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残しました。その業績により我が国では「算聖」と呼ばれ、さらに同世代に出たイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツと共に世界三大数学者として尊称されています。生誕 命日 宝永5年10月24日(1708年12月5日)<< 戻る
人物

了翁道覚(りょうおうどうかく)

江戸時代前期、教育文化、社会福祉、公共事業など各種の社会事業に貢献した黄檗宗の僧。出羽国雄勝郡八幡村生まれ。初め名を祖休といい、後に道覚とあらためた。号も初めは了然といい、後に了翁にあらためた。寛永20年(1643年)、了翁は陸奥国(後の陸中国)平泉の中尊寺(岩手県平泉町)を詣でたが、その際、多くの経典がすでに散逸してしまっていることを知った。特に藤原清衡奉納の宋版大蔵経の多くが失われていることを嘆き、近隣を探し回り、今日国宝の一部として知られる金銀交書(紺紙金銀交書大般若経)6巻を返納した。さらにこれ以後、散逸した経典や群書の蒐集と一切経蔵建立の運動に一生を捧げることを誓う。承応3年(165...
仏教を学ぶ

西方寺-宮城県仙台市青葉区

・西方寺 浄土宗 宮城県仙台市青葉区大倉字上下11706年(宝永3年) 西方寺開山1832年(天保3年) 白髭大明神石碑を建立(貞能堂境内)(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

吉祥院-埼玉県さいたま市北区

・雙樹山大恵寺吉祥院 真言宗智山派 埼玉県さいたま市北区宮原町4-29-4開山 正確には不詳。中興まで九世の返還有りという。中興開山 榮秀法印 寛永3年(1706)遷化(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

称念寺-愛知県知立市

・称念寺 真宗大谷派 愛知県知立市新地町西新地65知立の中町はその名からしてまさに当時の中心地であり、そこに寺がありました。時に1705年(宝永2年)、本町桶屋喜右衛門裏家から失火し、池鯉鮒宿など計81軒を消失した大火によって寺にまで火がおよび、本尊や宝物なども多く焼失してしまいました。(リンク先より) << 戻る
人物

市川團十郎(初代)(いちかわだんじゅうろう)

初代 市川 團十郎は、元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。生誕 万治3年(1660年)命日 元禄17年2月19日(1704年3月24日)<< 戻る
人物

吉良義央(きら よしひさ/よしなか)- 吉良上野介義央

江戸時代前期の高家旗本。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介。一般的には吉良上野介と呼ばれる。生誕 寛永18年9月2日(1641年10月5日)命日 元禄15年12月15日(1703年1月31日)霊性寺殿実山相公大居士<< 戻る
人物

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)

江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し(寺坂信行を除く)、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった(赤穂事件)。 良雄は諱で、通称(仮名)は内蔵助。一般にはこのの名で広く知られる。本名は大石良雄(おおいしよしお/よしたか)。生誕 万治2年(1659年)命日 元禄16年2月4日(1703年3月20日)忠誠院刃空浄剣居士<< 戻る
仏教を学ぶ

観念寺-大阪府南河内郡

・観念寺 浄土真宗本願寺派 大阪府南河内郡河南町大字寛弘寺220観念寺は、江戸時代(元禄16年)に寛弘寺村の熱心な念仏信者たちによって、 京都の西本願寺から本尊阿弥陀如来の名号をもらい受け念仏道場として起こったと伝わっている。(リンク先より)※元禄16年 1703年 << 戻る
仏教を学ぶ

上正寺-神奈川県茅ヶ崎市

・上正寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県茅ヶ崎市小和田2-12-73元禄十五年(1702)僧 圓春 の記せし 境内太子堂縁起 によるに、圓融院 第四皇子 尊勝法親王 郡中寺尾郷(市内小出町)に一宇を建て、海圓院と号し、顕密兼学の道場とす。 文治年中(1185~1189)当村に移れり。 後、嘉禄年中(1225)住僧 了智坊道圓(佐々木四郎高綱公)親鸞聖人(浄土真宗の開祖 1173~1262) に国府津に謁し、其の宗法に帰依し今の宗派に改む。 因りて 了智坊 を宗の開祖とす。其の頃 親鸞聖人 寺号を 無上正覚寺 と名づく。  後、寺務を 智圓に譲り、信州松本に 正行寺 を建て、仁治二年(1241)二月...
仏教を学ぶ

願正寺-佐賀県佐賀市

・願正寺 浄土真宗本願寺派 佐賀県佐賀市呉服元町6-5慶長5年(1600)関ヶ原合戦のとき、後の佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は、西軍(豊臣方)に加わったが、敗北し進退に窮した。この謝罪について、西本願寺の准如上人などが中に入り、佐賀藩は事無きを得た。その恩顧に報いるため創立されたものである。それ以後、肥前領内の真宗寺院並びに門信徒は全て西本願寺派となり願正寺はその中心寺院として、肥前国総道場と称された。現本堂は1702年に建立。(リンク先より) << 戻る
人物

徳川光圀(とくがわみつくに)

常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。生誕 寛永5年6月10日(1628年7月11日)命日 元禄13年12月6日(1701年1月14日)<< 戻る
人物

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)

播磨国赤穂藩3代藩主。官位は従五位下、内匠頭。官名から浅野内匠頭と呼称されることが多い。江戸城本丸大廊下にての刃傷とそれに続く赤穂事件で広く知られる。生誕 寛文7年8月11日(1667年9月28日)命日 元禄14年3月14日(1701年4月21日)冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士<< 戻る
人物

契沖(けいちゅう)

江戸時代中期の真言宗の僧であり、古典学者(国学者)。11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住持となるが、高野山に戻り、円通寺の快円に菩薩戒を受け、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行う。延宝5年(1677年)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受ける。延宝7年(1679年)に妙法寺の住持となる。『万葉集』の解釈を進...
人物

河村瑞賢(かわむらずいけん)

江戸時代初期の政商。幼名は七兵衛、通称は平太夫、諱は義通。生年を元和3年(1617年)とする説もある。江戸幕府の土木工事の人夫頭などで徐々に資産を増やすと、材木屋を営むようになり、明暦3年(1657年)、明暦の大火の際には木曽福島の材木を買い占め、土木・建築を請け負うことで莫大な利益を得た。寛文年間に老中で相模国小田原藩主稲葉正則と接触、幕府の公共事業に関わっていく。幕府代官所などが管轄する年貢米を奥州から江戸へ輸送する廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路が使われていた。幕命により瑞賢は、寛文11年(1671...
仏教を学ぶ

禅林寺-東京都三鷹市

・霊泉山 禅林寺 公式ホームページ 黄檗宗 東京都三鷹市下連雀4-18-20元禄十二年(一六九九)八月台風のために建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のために寺社地を村方へ返還した。 そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

覚苑寺-山口県下関市

・覚苑寺 黄檗宗 山口県下関市長府安養寺3-3-10当山は長府藩主第三代毛利綱元公が、元禄11年(1698年)、黄檗山万福寺の第七代住持であった中国僧、悦山道宗禅師を勧請開山として迎え創建した黄檗宗の寺院です。もともと、当山の前身は市内綾羅木にあった古刹元享山利済寺でしたが、それを現在地に移し、名を法輪山覚苑寺と改められました。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

円通寺-岡山県倉敷市

・円通寺 曹洞宗 岡山県倉敷市玉島柏島451現在の倉敷市玉島の地に行基菩薩によって星浦観音の霊場が開創され、 その後、元禄11年(1698年)徳翁良高禅師によって曹同宗寺院として開山されました。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

大年寺-宮城県仙台市太白区

・大年寺 黄檗宗 宮城県仙台市太白区門前町3-22元禄9年(1696)11月、第四代仙台藩主伊達綱村公が鍬入れの式を行って茂ケ崎の地を拓き、宮城郡若林にあった廃寺小蓬山仙英寺の遺址を此処に移して新たに堂塔を建設し、両足山大年寺と号しました。同10年(1697)、下総國向島弘福寺普應鐡牛和尚を請うて開山始祖とし、8月、落慶の祝典を挙げました。(リンク先より) << 戻る
仏教を学ぶ

引接寺-茨城県那珂市

・引接寺 浄土宗 茨城県那珂市額田南郷429元禄9年(1696)に、水戸黄門で知られている徳川光圀公により、浄鑑院常福寺の末寺として建立されました。ご本尊阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩は、茨城県の指定文化財となっています。(リンク先より) << 戻る
人物

松尾芭蕉(まつおばしょう)

江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。伊賀上野(現:三重県上野市赤坂町)の下級武士松尾与左衛門の次男として生を受ける。幼名金作、長じて甚七郎または忠左衛門。兄姉が一人ずつ、妹が三人の六人兄弟。元来、松尾家は伊賀国柘植郡に代々住した平家末流の土豪、柘植七族の支流である。父は伊賀藤堂家の無足人として伊賀上野に来住、手習師匠などを生業としていた。若き日を藤堂良忠に仕える。良忠は北村季吟の教えを受ける俳人であり、そこから俳諧への目を開いていったと思われる。処女発句集『貝おほひ』で...
人物

菱川師宣(ひしかわもろのぶ)

江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称されるのは、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」というジャンルを確立したため。「見返り美人図」生誕 元和4年〈1618年〉命日 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉勝誉即友居士<< 戻る
人物

三井高利(みついたかとし)

江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖と言われる。「現金掛け値なし」で呉服の廉価販売を始め、また呉服は反物単位で売るという当時の常識を覆して切り売りをし、庶民の大人気となった。生誕 元和8年(1622年)命日 元禄7年5月6日(1694年5月29日)松樹院長誉宗寿居士<< 戻る
人物

井原西鶴(いはらさいかく)

江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師。別号は鶴永、二万翁、西鵬。 『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られる。談林派を代表する俳諧師でもあった。代表作『好色一代男』(1682年)『好色一代女』(1686年)『日本永代蔵』(1688年)『世間胸算用』(1692年)生誕 寛永19年〈1642年〉命日 元禄6年8月10日〈1693年9月9日〉<< 戻る
人物

土佐光起(とさみつおき)

江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人。子は土佐光成、土佐光親。大和絵の主流だった土佐派にあきたらず、ライバルの狩野派や宋元画を学び、従来の温雅なやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立した。特に南宋の院体画家李安忠の「鶉図」(国宝。現在は根津美術館蔵)を父譲りの細密描法を用いてしばしば描き、後の土佐派の絵師たちに描き継がれている。江戸中期の国学者、有職故実家である橋本経亮は著書『梅窓筆記』(享和元年(1801年))で、光起の鶉の絵に猫が飛びかかったという伝承を記している。また画題の面でも、風俗画や草木図な...
人物

熊沢蕃山(くまざわばんざん)

江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継、字は了介、通称は次郎八、後に助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕し郷里の近江国小川村(現・滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶ。寛永18年(1641年)全国に先駆けて開校した藩校「花畠教場」を中心に活動した。正保4年(1647年)には側役、知行300石取りとなる。慶安2年(1649年)には光政に随行し江戸に出府する。慶安3年(1650年)鉄砲組番頭、知行3,000石の上士に累進。慶安4年(1651年)庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草し、これが蕃山の致仕後の寛文10年(16...