buddhism

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極楽寺-愛媛県西条市

・極楽寺 石鎚山真言宗 愛媛県西条市大保木4-36西暦680年頃、役の行者神変大菩薩が、関西第一の霊峰、石鎚山(海抜1982米)に入山せられ、龍王山に籠らせ給い、毎日、不動ヶ滝に身を清め、西方にそびえ立つ霊峰石鎚山を拝しながら、ひたすらに衆生済度、密厳浄土、の実現を祈られつつ、厳しい修行を続けられた。(リンク先より) << 戻る
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薬師寺-奈良県奈良市

・薬師寺 法相宗 奈良県奈良市西ノ京町457六八〇年 天武天皇 皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、薬師寺建立を発願する。 六八六年 天武天皇崩御。皇后であった鸕野讃良皇女が持統天皇として即位される。六八八年 無遮大会を薬師寺に設ける。六九八年 薬師寺講堂阿弥陀大繍仏の開眼供養を行う。この時ほぼ講作が終り僧侶を住まわせ始める。(リンク先より)※2020年9月確認時点でアドレスの変更があったため更新しました。<< 戻る
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新羅が朝鮮半島を統一

676年、新羅が朝鮮半島を統一。<< 戻る
人物

大満弘忍(だいまんこうにん)

中国唐の時代。蘄州黄梅県(湖北省黄岡市黄梅県)出身。中国禅宗の五祖。大医道信に就いて嗣法。弟子には大通神秀、大鑑慧能がいる。蘄州黄梅県を中心に活動し、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築く。代宗により大満禅師の諡と、法雨塔の塔号を賜る。黄梅県の馮茂山(東山)で活動し、中国禅宗の本流となる東山法門を発展させ、中国禅宗発展の下地を作る。・「第三十二祖大満禅師は黄梅人なり。俗姓は周氏なり。母の姓を称なり。師は無父而生なり。たとへば、李老君のごとし。七歳伝法よりのち、七十有四にいたるまで、仏祖正法眼蔵、よくこれを住持し、ひそかに衣法を慧能行者に付属する、不群の行持なり。衣法を神秀にし...
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矢田寺-奈良県大和郡山市

・矢田寺 高野山真言宗 奈良県大和郡山市矢田町矢田寺3549「矢田のお地蔵さん」で親しまれている矢田寺(矢田山・金剛山寺)は、 城下町・郡山より西へ3.5キロ、矢田丘陵の中心矢田山の中腹にあり、 日本最古の延命地蔵菩薩を安置しています。今から約1300年前、大海人皇子(おおあまのみこ…後の天武天皇)が、 壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、 七堂伽欄48カ所坊を造営されたのが当山の開基です。(リンク先より)※白鳳4年 675年 << 戻る
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慈光寺-埼玉県比企郡

・慈光寺公式HP 天台宗 埼玉県比企郡ときがわ町西平386九十六世信海が書きました寺伝『都幾山慈光寺実録』によりますと、天武天皇の2年(673年)癸酉、僧慈訓が当山に登り慈光老翁の委嘱を受け、千手観音堂を建て、観音霊場として開基しました。その頃、役小角が伊豆の国に配流となり、関東を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設け修験道場としました。(リンク先より) << 戻る
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三論宗(空宗)が伝わる

天武天皇2年(673年)に僧正となった中国(呉)出身の智蔵(恵灌の弟子)は元興寺で恵灌に三論を学んだ後に入唐し、恵灌の師であり三論宗の大成者でもある吉蔵に直接師事して伝えた三論宗は、法隆寺の空宗とも呼ばれます。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る
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三井寺(園城寺)-滋賀県大津市

・三井寺(園城寺) 天台寺門宗 滋賀県大津市園城寺町246・第十三番 ⇒ 西国三十三所 第十四番 長等山 三井寺 ⇒ 第十五番弘文一年 672 七月 壬申の乱が起り、大友皇子(弘文天皇)崩御。大津京滅びる。この頃、大友村主家によって園城寺建立朱鳥一年 686 この年 寺伝に、天武天皇より「園城寺」の勅願を賜い大友氏の氏寺となす、という(リンク先より) << 戻る
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江岩寺-愛知県小牧市

・江岩寺 臨済宗妙心寺派 愛知県小牧市大字大山416飛鳥時代 6世紀から7世紀 (672年 壬申の乱)大山の寺 創建 発掘調査で白鳳期の布目瓦が大量に出てきたことから最初に建立された大山寺は壬申の乱後の7世紀末と考えられる。奈良時代 8世紀 大山寺廃絶平安時代 9世紀から12世紀 1113年 大山峰 正福寺 建立 天台宗、玄海上人が衰退していた大山寺を再興、尾張地方屈指の天台寺院となる。『大山三千坊』とも『西の比叡山、東の大山寺』とも称せられた。(リンク先より) << 戻る
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宝光寺-岐阜県不破郡

・宝光寺 真宗大谷派 岐阜県不破郡垂井町表佐1414弘文天皇の時代(六七二)関が原関所の役についていた林豊後守藤原徳光が出家して法相宗末の宝光寺定空となったのを前期の開基とし、その末裔二十五代藤原道義が蓮如上人に帰依、宝光寺を相続していたのを後期の開基とする。(リンク先より) << 戻る
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山階寺の移転、厩坂寺に改称

天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。後の興福寺。<< 戻る
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壬申の乱

672年、壬申の乱。皇位の後継ぎ問題、これに勝った大海人皇子が天武天皇となる。<< 戻る
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天智天皇が死去

671年、天智天皇が死去。<< 戻る
人物

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠と共に藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協...
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興福寺-奈良県奈良市

・興福寺 法相宗 奈良県奈良市登大路町48・第八番 ⇒ 西国三十三所 第九番 興福寺 南円堂 ⇒ 第十番法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。 その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置する為に造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、...
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石光寺-奈良県葛城市

・石光寺 浄土宗 奈良県葛城市染野387天智天皇(668~671在位)の勅願で建てられ、 役小角(えんのおづぬ)の開山と伝えられる。境内に奈良時代前期と言われる塔の大心礎があり、 平成3年には弥勒堂改築に伴う発掘調査の結果、日本最古の白鳳時代の石仏(当時の本尊)と他に瓦や仏せん(せんぶつ)が出土。(リンク先より) << 戻る
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中大兄皇子が即位、天智天皇となる

668年、中大兄皇子が即位、天智天皇となる。我が国最初の法典(近江令)や我が国最初の戸籍(庚午年籍)をつくる。<< 戻る
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誓願寺-京都府京都市中京区

・誓願寺 浄土宗西山深草派 京都府京都市中京区新京極三条下る桜之町453誓願寺は飛鳥時代、天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建されました。もともとは奈良にあったのですが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移されました。(リンク先より) << 戻る
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大津宮に都を遷す

667年、大津宮に都を遷す。<< 戻る
人物

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)

玄奘三蔵とは、中国(唐)の訳経僧です。玄奘とは僧名で、また諱でもあります。僧の最高峰である「三蔵」の号を得た高僧で、初代三蔵の鳩羅摩什(くまらじゅう)と共に「二聖」、あるいは真諦と不空金剛を含めて「四大訳経家」とも呼ばれます。法師、三蔵などが付いているのは尊称です。現在の河南省に生まれ、俗名は陳褘(ちんき)、諡(おくりな)は大遍覚(だいへんがく)です。629年に陸路でインドに向かい、645年に経典657部や仏像などを持ち帰った旅が『大唐西域記』として残されています。法相宗の開祖です。10歳で父を亡くした玄奘は、次兄の長捷(陳素)が出家して浄土寺(洛陽)に住むようになり、自身も浄土寺に学び、11...
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白村江の戦い

663年、白村江(はくすきえ)の戦い。新羅と唐が結んで百済を攻めたため、日本が百済を助けて朝鮮に出兵した。日本軍は敗れ、朝鮮半島から手を引き、北九州の守りをかためた。<< 戻る
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仙遊寺-愛媛県今治市

・仙遊寺 高野山真言宗 愛媛県今治市玉川町別所甲483・57番札所 ⇒ 四国八十八ヶ所 第58番札所 作礼山 千光院 仙遊寺 ⇒ 59番札所寺伝によると、仙遊寺は天智天皇(626〜在位661〜672)の勅願により創建されたといわれています。実際に地元で指揮を執ったのが当時の国守であった越智守興(おちもりおき)。作礼山の頂上付近に堂宇を建立したのが始まりといわれています。(作礼山の麓に越智守興をまつった三嶋神社があります)(リンク先より)<< 戻る
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建治寺-徳島県徳島市

・建治寺 東寺真言宗 徳島県徳島市入田町金治230当寺は白鳳時代天智天皇の頃(661~671)役行者(えんのぎょうじゃ)を開基に、金剛蔵王大権現を御本尊として発祀しました。弘仁年間(810~824)弘法大師が四国巡礼の折、当山に登り霊験あらたかなその聖地に感じ入り、修行場所として最適な霊地と逗留されることとなりました。(リンク先より) << 戻る
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倶舎宗が伝わる

元興寺禅院の開祖の道昭が661年に帰朝の際、倶舎論および注疏を招来したと考えられています。その後、倶舎宗という宗派が公的に制定されるのは、天平勝宝年間(749年~757年)の東大寺において大仏開眼供養にちなんで南都六宗の一つとして自宗関係の多数の経論を転読講説しています。奈良時代以後は元興寺(南寺)と興福寺(北寺)を中心とする法相宗の付宗として伝統が伝えられました。倶舎宗とは、世親の阿毘達磨倶舎論およびその注釈書を中心として諸経論を研究・講義し、師資相承する学僧たちのグループです。毘曇宗、抑舎宗、倶舎衆、薩婆多(さっばた)宗などとも呼ばれます。<< 戻る
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千光寺-奈良県生駒郡

・千光寺 真言宗醍醐派 奈良県生駒郡平群町大字鳴川188修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)は、舒明天皇6年(634年)元日、出雲の国の高賀茂問賀介麿(まかげまろ)と賀茂役氏の娘の白専女(しらとうめ)の子として、大和国葛木上郡茅原の郷に生まれました。幼少期の時より山に入り、修行を積み、修験道を開かれました。後に成人し、金剛葛城山において仏道修業に励まれました。西暦660年頃、生駒明神に参拝の折にご神託により鳴川の里に入り、小さな草堂を建て、将軍木(ウルシの木)で千手観音を刻んで安置しました。その後、天武天皇が国家鎮護を願って伽藍を建立し、「千光寺」と名付け、寺領500石を下し賜われました。(...
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智通・智達等も法相宗を広める

658年(斉明天皇4年) 入唐した智通・智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京に元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝と言われた。<< 戻る
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横蔵寺-兵庫県加古川市

・横蔵寺 曹洞宗 兵庫県加古川市平岡町新在家900白雉年間(西暦653年)法道仙人により開基。平安時代には58代 光孝天皇(在位884―887)の祈願所となり、59代 宇多天皇(在位887―897)が譲位の後、出家して寛平法皇となってからは、法皇の潜邸として栄えました。(リンク先より) << 戻る
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道昭が入唐留学

653年(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺で法相宗を広めた。<< 戻る
人物

大医道信(だいいどうしん)

中国唐の時代。蘄州永寧県(湖北省黄岡市武穴市)出身。中国禅宗の四祖。鑑智僧璨に就いて嗣法。弟子には大満弘忍がいる。蘄州黄梅県を中心に活動し、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築く。諡は大醫禅師。廬山大林寺、蘄州黄梅県双峰山。・「第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。すでに仏祖の祖風を嗣続するより、摂心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。真丹の第四祖なり。」(「正法眼蔵」行持 下)生誕 太建12年(580年)命日 永徽2年閏9月4日(651年10月23日)<< 戻る
人物

阿倍内麻呂(あべのうちまろ)

飛鳥時代の豪族。阿倍鳥の子。官職は左大臣。皇極天皇4年/大化元年(645年)中大兄皇子と中臣鎌子により蘇我入鹿が暗殺され、その父・蝦夷は自殺して蘇我本宗家は滅亡した(乙巳の変)。皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位し、左大臣には内麻呂が、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また娘の小足媛を孝徳天皇の妃とした。生誕 命日 大化5年3月17日(649年5月3日)<< 戻る
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天上寺-兵庫県神戸市灘区

・天上寺 高野山真言宗 兵庫県神戸市灘区摩耶山町2-12摩耶山天上寺は、大化二年、孝徳天皇の勅願により、インドの高僧法道仙人によって開創されました。ご本尊は、お釈迦さまがみずから感成されたと言われる一寸八分の秘仏十一面観音です。(リンク先より)※大化二年 646年 << 戻る
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和田寺-兵庫県篠山市

・和田寺 天台宗 兵庫県篠山市今田町下小野原69646年法道仙人開基 足利義澄豊臣秀吉等の擁護を受く後水尾天皇の后新広義門院の祈願所 杉林の参道シャガの群生古木あり立杭焼の郷。646年(大化二年)法道仙人が和田寺山頂上に一宇の堂を建立開基された。820年(弘仁十一年)京都妙法院末となり、以後数拾の堂宇が建ち繁栄したが、1184年(寿永三年、元暦元年)2月兵火に羅り悉く焼失、翌年の文治元年、播州清水寺二﨟理圓和尚が再建する。(リンク先より) << 戻る