buddhism

人物

本居宣長(も通りのりなが)

江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と共に「国学の四大人」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。主要な作品『古事記伝』『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』生誕 享保15年5月7日(1730年6月21日)命日 享和元年9月29日(1801年11月5日)高岳院石上道啓居士<< 戻る
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伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)

江戸時代の画家。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号す。代表作品・『動植綵絵』の内「群鶏図」「池辺群虫図」・日出鳳凰図(にっしゅつ ほうおうず)絹本着色。日出の旭日を背に飛翔する鳳凰。米国、ボストン美術館蔵。・隠元豆 玉蜀黍図(いんげんまめ とうもろこしず)紙本墨画、2幅。和歌山県、草堂寺蔵。・糸瓜群虫図(へちまぐんちゅうず)絹本着色、1幅。実る糸瓜に飛蝗や蝸牛など様々な虫が戯れる。京都の細見美術館が所蔵。・風竹図(ふうちくず)絹本墨画、1幅。京都、細見美術館蔵。・旭日鳳凰図(きょくじつ ほうおうず)絹本着...
寺院

本願寺富山別院-富山県富山市

・本願寺富山別院 浄土真宗本願寺派 富山県富山市総曲輪2-7-121800年頃 (寛政年間~天保頃)川端町に町屋を買い本山会所を設ける1884年(明治17年) 9月13日 別院昇格の許可(以後3度の火災にあうが復興する) 1945年(昭和20年) 8月1日 深夜、富山大空襲にて別院4度目の焼失1946年(昭和21年) 8月1日 仮本堂入仏法要(リンク先より)<< 戻る
寺院

正満寺-東京都港区

・正満寺 浄土真宗本願寺派 東京都港区高輪1-27-44寛政 九年 (1798)文如上人裏書の蓮如上人御影安置。文化 五年 (1808)本願寺十九代本如上人裏書の文如上人御影一幅、親鸞聖人絵伝四幅を安置。正満寺十一世淳東代。文化 八年 (1811)一月十六日 正満寺十一世淳東、徳明寺を正満寺と改め、同二十五日築地別院中より移転。 文化 十一年 (1814)二月 正満寺移転、本山が正式認可。(リンク先より) << 戻る
寺院

国府別院-新潟県上越市

・国府別院 浄土真宗本願寺派 新潟県上越市国府1-7-1本願寺国府別院の本堂は寛政10年(1798)に造立、 文化2年(1805)に建立され、総﨔造りの本堂にして、当時の越後地方の寺院建築としては実に稀に見る壮麗なるもので、建築費なども相当多額 のものであったと想像されます。 また、内陣の様式なども土地狭き関係から、出内陣として、余間は極端に小さくしてあります。内陣正面の同一須弥 壇上に宮殿(本尊を安置)と厨子(親鸞聖人を安置)とを設置してあるのが特徴で、内陣外陣の天人・その他の彫刻・天井絵、内陣の壁画や外陣 の極彩色等いずれも上方一流の技能が窺われ、地方寺院のものとしては他に比類なきものであ...
人物

円山応挙(まるやまおうきょ)

江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。生誕 享保18年5月1日(1733年6月12日)命日 寛政7年7月17日(1795年8月31日)<< 戻る
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長谷川平蔵(はせがわへいぞう/宣以/のぶため)

江戸時代中期の旗本で、火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。幼名は銕三郎、あるいは銕次郎。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵を通称とした。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として、日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。生誕 延享2年(1745年)命日 寛政7年5月19日(1795年6月26日)海雲院殿光遠日耀居士<< 戻る
寺院

最乗寺-神奈川県横浜市都筑区

・勝田山最乗寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横浜市都筑区勝田町1277最乗寺の歴史は古く、今から約530年前に浄土真宗の寺院として開創されました。長きに渡り、この地でご門徒の方々と共に歩み続け、当世の住職で18代目となります。江戸時代の寛政7年(1795年)に建立された本堂は、今なお聞法の場として多くの方にお参り頂いております。(リンク先より) << 戻る
寺院

法幢院-山梨県甲州市

・雲龍山 法幢院 曹洞宗 山梨県甲州市塩山上萩原94開創  寛政2年本寺  龍石山 永昌院開山  鐵容存州大和尚(リンク先より)※寛政2年 1790年 << 戻る
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田沼意次(たぬまおきつぐ)

江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。生誕 享保4年7月27日(1719年9月11日)命日 天明8年6月24日(1788年7月27日)隆興院殿耆山良英大居士<< 戻る
仏教を学ぶ

京都大火により東本願寺両堂消失

1788(天明八)年1月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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徳川家治(とくがわいえはる)

江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年) - 天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方(梅渓通条の娘)。生誕 元文2年5月22日(1737年6月20日)命日 天明6年8月25日(1786年9月17日)浚明院殿贈正一位大相国公<< 戻る
寺院

無量寺-和歌山県東牟婁郡

・無量寺 臨済宗東福寺派 和歌山県東牟婁郡串本町串本833錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院です。 もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故にたびたび津波の被害にあいましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。その後、流出した無量寺の再建の使命を帯びた臨済宗白隠下の禅僧、文保愚海和尚が入院(じゅいん)し、大津波より79年後の天明6年(1786)、辛苦の末、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。(リンク先より)<< 戻る
人物

与謝蕪村(よさぶそん)

江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭」があり、画号は「春星」「謝寅」など複数ある。生誕 享保元年(1716年)命日 天明3年12月25日(1784年1月17日)<< 戻る
寺院

天明寺-群馬県前橋市

・天明寺 真言宗豊山派 群馬県前橋市池端町645当寺は江戸中期の天明年間〔1781~1788〕に開創されたことにより天明寺と名づけられたと伝えられておりますが、実際には歴代住職の墓誌に「恵弁 貞享三丙寅天三月廿三日」とあります。このことから推測すると貞享三年〔1688〕には小さな庵を掬んでひっそりと仏道を歩んでいたのかもしれません。(リンク先より) << 戻る
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平賀源内(ひらがげんない)

江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。生誕 享保13年(1728年)命日 安永8年12月18日(1780年1月24日)智見霊雄大居士<< 戻る
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小田野直武(おだのなおたけ)

江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。生誕 寛延2年12月11日(1750年1月18日)命日 安永9年5月17日(1780年6月19日)絶学源真信士<< 戻る
寺院

善應寺-青森県平川市

・善應寺 真宗大谷派 青森県平川市高木原富66安永8年(1779) 尾上村の住民、内山安右エ門氏の次男善正が弘前真教寺、黒石感随寺の許可を得て道場を開き、「善正寺」として開基 2代目住職感随寺智林和尚三男慈海(リンク先より) << 戻る
寺院

多福寺-福岡県柳川市

・多福寺 真宗大谷派 福岡県柳川市吉富町81多福寺は、始まりは現在のみやま市山川町の竹井村という場所であったようです。そこで天台宗の寺院として存在していましたが、安永八年(1779年)に真宗に改宗したと記載があります。(リンク先より) << 戻る
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池大雅(いけのたいが)

江戸時代の文人画家 、書家。幼名は又次郎など。諱は勤、無名、字は公敏、貨成。日常生活には池野 秋平の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂、待賈堂、三岳道者、霞樵などが知られている。 妻の玉瀾も画家として知られる。弟子に木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村と共に、日本の南画の大成者とされる。生誕 享保8年5月4日(1723年6月6日)命日 安永5年4月13日(1776年5月30日)<< 戻る
寺院

耕雲寺-東京都世田谷区

・耕雲寺 曹洞宗 東京都世田谷区砧7-12-22安永5年・1776年、旗本の頭領であった水野十郎左衛門が非業の死をとげた事から、水野十郎左衛門の菩提を弔う為に、愛妾が出家をし「釣月」という法名を頂き、この耕雲寺(当時の名称は耕雲軒)を開創したものです。以前は新宿角筈に草庵をかまえていましたが昭和20年に戦禍を受け本堂伽藍を一切消失し、昭和27年に世田谷砧の地に移転しました。(リンク先より) << 戻る
寺院

徳願寺-兵庫県神戸市西区

・徳願寺 浄土真宗本願寺派 兵庫県神戸市西区押部谷町西盛617徳願寺は、安永元年(1772年)に創建されたと伝えられている、創建240年以上の歴史ある古刹です。(リンク先より) << 戻る
人物

鈴木春信(すずきはるのぶ)

江戸時代中期の浮世絵師。細身で可憐、繊細な表情の美人画で人気を博し、浮世絵というとまず思い浮かべる木版多色摺りの錦絵誕生に決定的な役割を果たし、後の浮世絵の発展に多大な影響を及ぼした。生誕 享保10年〈1725年〉命日 明和7年6月15日〈1770年7月7日〉法性真覚居士<< 戻る
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賀茂真淵(かものまぶち)

江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智郡にちなんだ雅号で、淵満とも称した。 荷田春満、本居宣長、平田篤胤と共に「国学の四大人」の一人とされ、その門流を「県居学派」、あるいは「県門」と称した。主要な作品『歌意考』『万葉考』『国意考』生誕 元禄10年3月4日(1697年4月24日)命日 明和6年10月30日(1769年11月27日)<< 戻る
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青木昆陽(あおきこんよう)

江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。サツマイモの普及を図り、甘藷先生と呼ばれる。名は敦書、字は厚甫、通称は文蔵、昆陽と号した。生誕 元禄11年5月12日〈1698年6月19日〉命日 明和6年10月12日〈1769年11月9日〉<< 戻る
寺院

常念寺-神奈川県川崎市麻生区

・常念寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県川崎市麻生区栗木203戦国時代の永禄元年に現在地に創建され、江戸時代中期に火災の為焼失し明和年間(一七六四~一七七一)に再建されたものである。江戸時代建立の寺院建築物は戦災等の為、川崎市内には数少なく当寺のように典型的な江戸時代の寺院の様式を残しているものは珍しく貴重なものと言われている。(リンク先より) << 戻る
人物

高遊外(こうゆうがい)- 売茶翁(ばいさおう)

江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。本名は柴山元昭、幼名は菊泉。法名は月海で、還俗後は高遊外とも称した。佐賀蓮池支藩の藩医の三男として誕生。11歳で龍津寺に出家し僧名は月海。22歳で修行不足を恥じ江戸、仙台等各地へ出かけた。煎茶は長崎の中国僧から習ったとの説もある。また、隠元禅師が京都宇治に開いた、黄檗山(おうばくさん)萬福寺でも修業、中国伝来の文化に触れ、視野を広げた。晩年、龍津寺を弟弟子に託し再上洛。洛中に「通仙亭」という庵を構え、茶を売りながら禅や人の生き方を説いた。その姿に人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼んだ。通仙亭には文人墨客が集まり「売茶翁に一服接待されなければ一流の文人とは言...
寺院

済法寺-広島県尾道市

・済法寺 曹洞宗 広島県尾道市栗原東1-15-6宝暦三年(1753) 広島国泰寺十一世笑堂行契和尚〔宝暦十三年(1763)八月十五日遷 化〕が広島藩より扶持を得て木ノ庄町木門田に隠居し三原宗光寺の末寺の西宝寺に住していた。宝暦六年(1756)三月十七日、宗光寺十三世眞猊行達和尚〔天明二年(1782)二月六日遷化〕より寺号を譲られ末寺を離れ、同八年(1758)に下総國葛飾郡幸手領下野村瑞光寺開山 穏之道顯和尚が笑堂行契和尚が本師となるため同寺の末寺となった。栗原村樋口屋又兵衛の寄進をうけ、同九年(1759)閏七月十三日免許を得て現在地に移転し、旧本堂を建立す。笑堂行契大和尚を開山と仰ぎ、広島藩五...
寺院

本要寺-三重県名張市

・本要寺 真言律宗 三重県名張市さつき台1-137本要寺は、1756年(宝暦6年)浪速(現在の大阪市)の地に創建されました。第二次世界大戦にて本堂は戦災にあいましたが、本尊である愛染明王様を疎開することによって難を脱しました。その後、ご縁があって昭和60年前に前住職光明によって現在の三重県名張市に移築され、現在に至っております。(リンク先より) << 戻る
寺院

泰聖寺-大阪府大阪市天王寺区

・泰聖寺 西山浄土宗 大阪府大阪市天王寺区下寺町2-4-10当山は、宝暦五年(1755)紹空哲山惠隆上人による創建にて以来、山城(京都府長岡京市)柳谷観音大阪霊場として信を集め、境内に湧出する「金龍水」「銀龍水」は大阪七名水のみならず「眼病にご利益あり」の評判高く、また「明治天皇御用水」の栄を授かるに至り注目を集めた。(リンク先より) << 戻る
寺院

善光寺-新潟県新潟市中央区

・善光寺 浄土真宗本願寺派 新潟県新潟市中央区稲荷町3460善光寺の開山は宝暦4年(1754年)。現在、善光寺は浄土真宗本願寺派の寺院として存在していますが、ルーツは長野にある善光寺と深いつながりのある寺。本尊は浄土真宗の御本尊「阿弥陀如来」と長野善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来」の分身像が安置されています。<< 戻る
人物

大岡忠相(おおおかただすけ)- 大岡越前

江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大...