buddhism

寺院

性原寺-鹿児島県姶良市

・性原寺 浄土真宗本願寺派 鹿児島県姶良市松原町1丁目30番地1明治9年(1876)の念仏解禁から17年後の明治26年に、松原地区500戸の人達によって鹿児島別院松原説教所が建立されました。ところが説教所の門徒の間に支持政党をめぐって不協和音が芽生え、大正6年(1917)約150戸の人達が説教所を離れて行きました。(リンク先より) << 戻る
寺院

潜龍寺-北海道函館市

・潜龍寺 曹洞宗 北海道函館市亀田中野町136明治二十五年旧六月二十四日、高龍寺第十八代住職雲林大法大和尚が当時亀田村大字赤川村長根と呼んでいた小高い丘に、高龍寺の説教所を設け、村民に仏の道を布教していたのが始まりです。(リンク先より)※明治二十五年 1892年 << 戻る
寺院

専修寺北海道別院-北海道札幌市清田区

・専修寺北海道別院 真宗高田派 北海道札幌市清田区平岡三条3丁目25-10専修寺北海道別院について 明治25年春、福井県鮎川願生寺住職、出見法泉が、縁故の信徒をたどって当区に立錫し、南二条東四丁目に山崎孝太郎より土地を賃借して説教場の創設を企て、開教の事情を本山に建議しました。翌26年本山は服部亮厳を札幌教務所主任として派遣し、ここに専修寺札幌別院の基礎が定まりました。(リンク先より)※明治25年 1892年 << 戻る
寺院

覚王寺-北海道札幌市北区

・覚王寺 浄土真宗本願寺派 北海道札幌市北区麻生町5-2-121892(明治25)年、内平可敬が山命を受けて熊本から来道。屯田兵の入植に伴い、開拓時代の人々と苦労や喜びを分かち合いながら、阿弥陀さまの救いにであうご縁を紡いだのが「覚王寺」の始まりです。(リンク先より) << 戻る
人物

三条実美(さんじょうさねとみ)

公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木 誠斉。 幕末には尊王攘夷・討幕派の中心的な人物であり、明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任した。また内閣総理大臣を一時兼任している。生誕 1837年3月13日(天保8年2月7日)命日 1891年(明治24年)2月18日<< 戻る
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子院六百数十ヶ寺を統廃合

明治二十四年(1891年)、高野山内の子院六百数十ヶ寺を統廃合し、百三十ヶ寺に。 << 戻る
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『修証義』(しゅしょうぎ)

『修証義』(しゅしょうぎ)は、おもに道元禅師の著わされた『正法眼蔵』から、その文言を抜き出して編集されたものです(どの部分から抜き出されたか詳しく知りたい方は ▶ 『修証義』(しゅしょうぎ)『正法眼蔵』対応版へ)。明冶時代の中ごろ、各宗派では時代に適応した布教のあり方を考える流れがありました。曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加しました。そのメンバーであった大内青巒(おおうちせいらん)を中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行されました。これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永...
寺院

旭川別院-北海道旭川市

・旭川別院 真宗大谷派 北海道旭川市宮下通2-1463別院の創建は、1890(明治23)年に久教淵【ひさしきょうえん】師によって、寺子屋から始まり約120年の時を経て、現在に至っています。(リンク先より) << 戻る
人物

松平春嶽(まつだいらしゅんがく)- 慶永(よしなが)

幕末から明治初期にかけての大名、政治家。越前国福井藩16代藩主。春嶽は号で、諱は慶永である。他に礫川、鴎渚などの号を用いたが、生涯通して春嶽の号を最も愛用した。田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われていた。生誕 文政11年9月2日(1828年10月10日)命日 明治23年(1890年)6月2日諦観院廓誉超勝常然大居士<< 戻る
寺院

紋鼈寺-北海道伊達市

・紋鼈寺 浄土真宗本願寺派 北海道伊達市末永町71-1明治23年に本願寺から布教を差許され、北海道の地に浄土真宗本願寺派の布教所を開きました。これが紋鼈寺の発祥となります。以来、伊達の地でお念仏を受け伝え、平成15年より第四代目の住職・正教へと継職し、現在まで至ります。(リンク先より) << 戻る
寺院

正法寺-広島県三原市

・正法寺 真言宗御室派 広島県三原市本町3丁目4-1亀甲山延命尊院正法寺は、長谷町鶴ヶ巣に大規模な七堂伽藍があったと伝えられていますが、天正年間築城に際し、館町に移されました。ところが福島正則の代に城の鬼門にあたる中之町に移し、侍屋敷を増築して東の街道を固め戦に備えました。そして、明治23年(1890年)末寺4ヶ寺を合併して大徳院跡であった現在の地へ移転しました。この寺は城主の祈願所として、江戸時代三原4ヶ寺のひとつとして、法燈継承しています。備後西国8番霊場(リンク先より)・正法寺 しょうぼうじ
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鈴木大拙が徳証寺に寄宿

明治22年(1889年)からおよそ2年間鈴木大拙(禅で知られる仏教学者)が徳証寺に寄宿した。<< 戻る
人物

松浦武四郎(まつうらたけしろう)

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。「北海道」の名前は松浦武四郎の発案とされている。生誕 文化15年2月6日(1818年3月12日)命日 明治21年(1888年)2月10日教光院釈遍照北海居士<< 戻る
寺院

青森寺-青森県青森市

・青森寺 真言宗智山派 青森県青森市栄町1-4-24明治二十一年、中村浄了師が結成した成田山新勝寺に参拝することを目的とした「成田講」の信徒が中心となり、青森市青柳に不動堂を建立したのが当山の始まりです。同二十三年に新勝寺の御分霊を不動堂に奉安し青森成田山と称しました。(リンク先より) << 戻る
寺院

水上寺-群馬県利根郡

・水上寺 真言宗智山派 群馬県利根郡みなかみ町湯原358当山、成田山水上寺は、西暦1888年・明治21年に千葉県成田市の真言宗智山派の大本山成田山新勝寺より勧請した不動明王をお祀り致しております。(リンク先より) << 戻る
寺院

大安寺-北海道恵庭市

・大安寺 曹洞宗 北海道恵庭市大町4-2-25大安寺は恵庭村となる前の漁村に、明治21年に寺子屋として誕生したお寺です。当時、漁村には郷党を頼って山口県から団体での入植がありました。入植者の“子弟の教育”と、“心の拠り所”として地域に求められて建立されたお寺なのです。恵庭における最初の教育施設が大安寺だったのです。御開山は曹洞宗大本山永平寺64世の大休悟由禅師さまで、大本山永平寺の直末のお寺になります。(リンク先より)※明治21年 1888年 << 戻る
人物

島津久光(しまづひさみつ)

江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。 位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。生誕 文化14年10月24日(1817年12月...
寺院

富山別院-富山県富山市

・富山別院 真宗大谷派 富山県富山市総曲輪2-8-29明治維新という日本が大変革された時代に、廃仏毀釈の嵐が富山藩を吹き荒れました。明治3年、藩内の仏教諸宗に対して一宗に一カ寺しか存続を認めない「合寺令」が断行されたのです。権力による激烈な仏教弾圧によって、藩内の200以上の真宗寺院が取り壊されました。 念仏の灯火が消されそうになった地に、門徒たちは聞法の場を求めました。明治19年、富山城の外堀を埋め立てて説教所の敷地にしようと「砂持奉仕」が実施されました。延べ7000人以上の人々が神通川から土砂を運び、埋め立てて、現在の総曲輪に寺地を築きました。これが富山別院の始まりです。(リンク先より)※...
寺院

善徳寺-広島県広島市南区

・善徳寺 浄土真宗本願寺派 広島県広島市南区宇品神田4-11-8明治19年に宇品築港でやって来た上蒲刈島大浦出身の浄土真宗門徒たちが、宇品海岸3丁目の旧運輸部跡に真宗宇品説教所を開設し、主管に東広島市河内町宇山教念寺副住職の友國順信師を迎えた。淳信師のご往生後に寺基は転々としたが、昭和12年に後継者の友國善量が寺を宇品神田5丁目に移して再建し、昭和22年4月に本願寺より「善徳寺」の寺号の公認をうけた。(リンク先より)※明治19年 1886年 << 戻る
人物

五代友厚(ごだいともあつ)

江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷生まれ。大阪経済界の重鎮の一人。大阪市の本邸跡は大阪科学技術館・日本銀行大阪支店になっている。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。生誕 天保6年12月26日(1836年2月12日)命日 明治18年(1885年)9月25日<< 戻る
人物

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)

実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。諱は敏(後に寛)、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。「創業は大胆に、守成は小心たれ。 樽よりくむ水にまして、洩る水に留意すべし」「断じて投機的な事業を企つるなかれ」生誕 天保5年12月11日(1835年1月9日)命日 明治18年(1885年)2月7日<< 戻る
寺院

新栄寺-北海道札幌市中央区

・新栄寺 真言宗醍醐派 北海道札幌市中央区南7条西3丁目2番地成田山新栄寺は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の札幌別院です。当山の開創は明治時代です。 明治2年(1869年)に北海道開拓使が置かれて以来、本州、四国、九州方面から多くの人々が新天地開拓のために北海道へ移住しました。自然環境の厳しい北海道の開拓は容易ではなく、筆舌に尽くせぬ艱難辛苦を味わった、と当時の記録にあります。そのような苦労の中、心の支えとしてお不動さまを信仰していた人々が発起人となり、明治18年(1885年)、現在の地に仮堂を建設し大本山より御本尊不動明王のご分身を勧請し開創されました。(リンク先より) << 戻る
寺院

法城寺-鹿児島県薩摩郡

・法城寺 浄土真宗本願寺派 鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田536明治18年頃、開基住職、副 慈雲によって鶴田真宗本願寺派説教所として設立された。同22年に大火にあい、建物一切を焼失した。その後、本堂を門徒が建立し、庫裏の一部は民家を持って来たと言われる。(リンク先より)※明治18年 1885年 << 戻る
人物

田中平八(たなかへいはち)

幕末、明治の実業家、相場師。横浜で糸屋平八商店を営み、生糸・洋銀などの相場で財を成し、「天下の糸平」と呼ばれた。本姓は藤島。幼名は釜吉。名は政春。生誕 1834年8月15日(天保5年7月11日)命日 1884年(明治17年)6月8日<< 戻る
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東行庵-山口県下関市

・東行庵 曹洞宗 山口県下関市吉田町1184清水山東行庵(せいすいざんとうぎょうあん)と称し、維新の革命児・高杉晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建されました。ご本尊は「白衣観音菩薩」です。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうの。晋作の死後、明治14年(1881)に曹洞宗総本山永平寺の貫主である久我環渓禅師から得度を受け、「梅処」(ばいしょ)と称して晋作の眠るこの地で菩提を弔うことを余生としたと伝えられており(リンク先より) << 戻る
人物

岩倉具視(いわくらともみ)

公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈・太政大臣贈・正一位大勲位。維新の十傑の1人。生誕 1825年10月26日(文政8年9月15日)命日 1883年(明治16年)7月20日<< 戻る
寺院

禅林寺-北海道帯広市

・禅林寺 曹洞宗 北海道帯広市緑が丘8丁目1−1本院 明治16年開教別院 平成25年開教(リンク先より)※明治16年 1883年 << 戻る
寺院

函館寺-北海道函館市

・函館寺 真言宗智山派 北海道函館市松風町15-17当山は、明治16年(1883)真言宗智山派大本山成田山新勝寺のご本尊大聖不動明王のご分霊を勧請し、明治29年(1896)開創され、成田山凾館寺(通称成田山凾館別院)と号します。昭和9年(1934)未曾有の業火凾館大火にて本堂・客殿・庫裡全てが烏有に帰し、昭和10年(1935)仮堂を建立。(リンク先より) << 戻る
人物

佐藤尚中(さとうたかなか/しょうちゅう)

幕末から明治初期の蘭方医。幼名を竜太郎、舜海と称し、笠翁と号す。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。下総国小見川出身。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年については諸説ある。ドラマ化もされた人気漫画「JIN−仁−」の主人公、南方仁のモデルとも言われている。生誕 1827年5月3日(文政10年4月8日)命日 1882年(明治15年)7月23日<< 戻る
寺院

高福寺-青森県弘前市

・高福寺 曹洞宗 青森県弘前市撫牛子4-5-4前身は橋本庵で明治15年開基白眼光沙弥(白崎熊太郎翁)の発願によって建てられ、師は長年に亘って独り托鉢修行をせられ、施主各々菩提の為に千足の草履を踏み破ってようやくに伽藍が建立されたという尊い記録が御座います。(リンク先より)※明治15年 1882年 << 戻る
寺院

甘露寺-宮城御県栗原市

・甘露寺 浄土真宗本願寺派 宮城県栗原市若柳字川北塚原427-6明治十五年頃、旧 栗原郡北部の門信徒は、称念寺歴代の住職及び幾多の人々教化伝道によってご縁をむすばれ、旧 若柳町新町平塚清兵衛宅に「道場」が開設されていた。明治三十五年に本願寺布教使井上安祥師を中心に門信徒と共に同町元町九番地の土地を買い求めて本願寺説教所を設立し、柴田宣照、龍原孝順、楯玄一の各師により御法義相続が勤められた。柴田宣照師は当地に寺院建立を願い、北海道に開設した寺院を長子宣妙に譲り、来町して各方面に働きかけるも、宗教政策により許可されず苦慮していた。そこで弟の称念寺住職柴田宣海師と図り、同寺内「甘露寺」移転を画策した...
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仏旗(ぶっき)

「青、黄、赤、自、橙」の5色の旗は仏教のシンボルで仏旗といいます。イギリス人の仏教徒オルコット大尉が、1882年(明治15年)に考案したものといわれています。1950年(昭和25年)にスリランカのコロンボで、第1回世界仏教徒会議が開かれた際、その中で仏旗制定の議案が提出され満場一致の賛同を得て、法輪と共に正式に万国共通の仏教徒のシンボルとして「仏教徒の旗」略して「仏旗」と決められました。何故「青、黄、赤、白、橙」の5色なのかは諸説がありますが、ブッダが12月8日にプツダガヤで悟りを開かれた時にブッダの身体から5色の光明が輝きあたりを照らしたという故事を元にして採用されたものだと伝えられています...