buddhism

寺院

安泰寺-兵庫県美方郡

・安泰寺 曹洞宗 兵庫県美方郡新温泉町久斗山字中ノ平106安泰寺は曹洞宗に属しております。 大正10年丘宗潭により宗学研究の学堂として、 京都洛北の玄琢に開創されました。 多くの学匠を輩出し、近代の伝統宗学はこの学堂によって継承発展してきました。第二次世界大戦中には一時期荒廃していましたが、 昭和24年澤木興道と内山興正の師弟が、 只管打坐を純粋に行持する寺として再興されました。(リンク先より)※大正10年 1921年 << 戻る
人物

板垣退助(いたがきたいすけ)

武士、勤皇志士。軍人・政治家。自由民権運動の主導者。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲。「憲政の父・国会を創った男」として知られる。明治15年(1882年)4月6日、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。生誕 天保8年4月17日(1837年5月21日)命日 大正8年(1919年)7月16日<< 戻る
人物

井上円了(いのうええんりょう)

仏教哲学者、教育者。 多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学館を設立した。また迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた。生誕 1858年3月18日(安政5年2月4日)命日 1919年(大正8年)6月6日<< 戻る
人物

前島密(まえじまひそか)

官僚、政治家。本姓は上野。通称は来輔。号は如々山翁鴻爪。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。今日も使われる「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めたほか、1円切手の肖像で知られる。生誕 天保6年1月7日(1835年2月4日)命日 大正8年(1919年)4月27日(墓所、浄楽寺)<< 戻る
寺院

北大寺-北海道札幌市北区

・北大寺 曹洞宗 北海道札幌市北区北十二条西3北大寺は中央寺住職三沢松偃師が、大正7年12月19日、北区北8条西1丁目に中央寺法務所を開設したのをその淵源とする。開設時の主任に任命された開創二世道円和尚は、19年間、熱意あふれる布教活動により多数の檀信徒を擁するに至った。(リンク先より)※大正7年 1918年 << 戻る
人物

大内青巒(おおうちせいらん)

明治期から大正期における仏教学者・思想家。父は仙台藩士大内権右衛門。名は退。字は巻之。別号を藹々居士。陸奥国仙台出身。はじめ宮城郡東宮浜(現在の七ヶ浜町)、後に常陸国水戸の寺院で出家して泥牛と号し、その後江戸へ出て仏教の研究を志した。明治維新後は、大洲鉄然の推挙により浄土真宗本願寺派本山本願寺(西本願寺)第21世宗主大谷光尊の侍講をつとめた。1874年(明治7年)雑誌『報四叢談』、1875年(明治8年)新聞『明教新報』を発刊し、仏教における啓蒙思想家として活動した。1889年(明治22年)島地黙雷・井上円了らと共に天皇崇拝を中心とする仏教政治運動団体「尊皇奉仏大同団」を結成した。曹洞宗の『修証...
寺院

高野寺-福岡県朝倉市

・高野寺 高野山真言宗 福岡県朝倉市菩提寺588御本尊、弘法大師は紀州高野山より大正七年にお受けした由緒ある仏様です。以来宗派にこだわらない開かれたお寺として今日まで続いております。(リンク先より) << 戻る
寺院

宝光寺-北海道斜里郡

・宝光寺 真言宗智山派 北海道斜里郡斜里町本町15-7大正7年、 初代住職である中川隆潮師が5月9日98坪の土地に教会所として本堂と庫裡を 建立する。昭和6年、 宝光寺創立の許可を北海道庁長官より得る。昭和7年、 創立完了。寺号公称して正式に「宝光寺」となる。(リンク先より) << 戻る
寺院

順信寺-北海道枝幸郡

・順信寺 真宗大谷派 北海道枝幸郡枝幸町歌登西町120大正6(1917)年    大谷派布教所設置大正15(1926)年   「順信寺」寺号公称(リンク先より) << 戻る
人物

夏目漱石(なつめそうせき)

小説家、評論家、英文学者、俳人。本名は夏目金之助。俳号は愚陀仏。明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。生誕 1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉命日 1916年〈大正5年〉12月9日文献院古道漱石居士<< 戻る
人物

上田敏(うえだびん)

評論家、詩人、翻訳家。文学博士。京都帝国大学文科大学教授。族籍は静岡県士族。「柳村」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。代表作『海潮音』(1905年)、『うづまき』(1910年)生誕 1874年(明治7年)10月30日命日 1916年(大正5年)7月9日含章院敏誉柳邨居士(森鷗外の撰)<< 戻る
人物

永倉新八(ながくらしんぱち)

幕末の武士(松前藩士、新選組隊士)。本姓は長倉、諱は載之(のりゆき)。幼名は栄吉、栄治。 松前藩を脱藩後、新選組に入隊し、二番隊組長及び撃剣師範を務めた。明治期に杉村義衛と改名し、樺戸集治監の撃剣師範を務めた。生誕 天保10年4月11日(1839年5月23日)命日 大正4年(1915年)1月5日釈義潤憲徳院義衛良行居士<< 戻る
寺院

慈光寺-北海道札幌市西区

・慈光寺 真宗木辺派 北海道札幌市西区八軒七条東3-4-1大正4(1915)年、慈光寺の前身である真宗木辺派錦織寺札幌説教所として開教し、その後、寺号公称(寺院として独立すること)によって慈光寺となりました。(リンク先より) << 戻る
人物

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4か月後に第15代将軍に就任。生誕 1837年10月28日〈天保8年9月29日〉命日 1913年〈大正2年〉11月22日<< 戻る
人物

桂太郎(かつらたろう)

武士、陸軍軍人、政治家。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に首相を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。「ニコポン宰相」の異名を持ち、通算在職日数は2,886日。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、その翌年に病没した。生誕 1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉命日 1913年〈大正2年〉10月10日<< 戻る
人物

田中正造(たなかしょうぞう)

政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴したことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村出身。1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説を度々行った。12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行った。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、新聞の号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。...
人物

岡倉天心(おかくらてんしん)

思想家、文人。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。横浜(神奈川県)生まれ。フェノロサと共に文化財保護の礎をつくり東京美術学校(現在の東京藝術大学)の創設に尽力。日本画の革新と美術学校の校長を務め、文化行政に携わり、思想家として著作を執筆し、ボストン美術館でキューレターとして活動した。それだけではなく、南画家に師事し、琴を学び、漢詩を残し、余暇には釣りを楽しみ、オペラの台本までも著していた。1862年横浜本町5丁目に生まれる。父岡倉覚右衛門。1873年東京日本橋に一家で移り、同年東京外国語学校に入学。1876年奥原晴湖に入門。1879年18歳でもとと結婚。1880年東京大学を卒業。同年、文部省に就職...
人物

伊藤左千夫(いとうさちお)

伊藤左千夫は1864年に千葉県で生まれ、1913年7月30日に脳溢血が原因で死去しました。明治時代から大正時代にかけて活躍した歌人・小説家です。歌人としては正岡子規の実質的な後継者として歌集『左千夫歌集』など優れた短歌・歌論を発表し『アララギ』を主宰。小説家としては歌集『左千夫歌集』などを執筆しました。1902年9月19日、師である正岡子規が死去し、長男・次男と相次ぐ別れと重なったことも契機となり「新仏教」の同人となり、特に新鸞聖人の教えに傾倒しました。さびしさの極みに堪へて天地(あめつち)に寄する命をつくづくと思ふ『左千夫全集』より<< 戻る
人物

乃木希典(のぎまれすけ)

武士、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王の教育係も務めた。生誕 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)命日 1912年(大正元年)9月13日<< 戻る
人物

明治天皇(めいじてんのう)

第122代天皇。諱は睦仁、称号は祐宮。お印は永。 倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍(徳川慶喜)がいた最後の天皇。「一世一元の制」を定め、複都制としながらも東京府に皇居を置いた。功績・人物像から明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも呼ばれる。生誕 1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉命日 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日<< 戻る
人物

石川啄木(いしかわたくぼく)

歌人、詩人。歌集「一握の砂」生誕 1886年(明治19年)2月20日命日 1912年(明治45年)4月13日啄木居士<< 戻る
寺院

日泰寺-北海道札幌市中央区

・日泰寺 法華宗(真門流) 北海道札幌市中央区南六条西10-1017明治44年(1912)札幌市・北3条東4丁目の借家を布教活動の拠点とする。大正4年(1915)3月18日、現在地(南6条西10丁目)760坪を三笠トヨセ様より寄進される。その折、山号名を三笠トヨセ様に因み、『美豊山』と称した。 大正9年(1920)4月28日 本堂・庫裡を建立する。(リンク先より) << 戻る
人物

小村寿太郎(こむらじゅたろう)

外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。爵位は侯爵。生誕 1855年10月26日(安政2年9月16日)命日 1911年(明治44年)11月26日<< 戻る
寺院

總持寺-神奈川県横浜市鶴見区

・諸嶽山總持寺 曹洞宗 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2丁目1−1元亨元年(1321)4月18日の晩のこと、律師の夢枕に、僧形の観音様が現れ、「酒井の永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んで、この寺を禅師に譲るべし」と告げて、姿を消されたというのです。(中略)律師は霊夢によって一山を寄進し、禅師は快く拝受し、「感夢によって總持寺と号するはこの意なり」と述べられておられます。 明治31年(1898)4月13日夜、本堂の一部より出火、フェーン現象の余波を受け瞬時にして猛火は全山に拡がり、慈雲閣・伝燈院を残し、伽藍の多くを焼失してしまいました。現在の總持寺は横浜市の郊外、前に東京湾と房総半島を望み、...
人物

菱田春草(ひしだしゅんそう)

明治期の日本画家。横山大観、下村観山と共に岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。代表作「王昭君図」「賢主菩薩」「落葉」「黒き猫」生誕 1874年(明治7年)9月21日命日 1911年(明治44年)9月16日<< 戻る
仏教を学ぶ

宗祖六百五十回大遠忌法要

1911(明治四四)年4月、宗祖六百五十回大遠忌法要。<< 戻る
人物

幸徳秋水(こうとくしゅうすい)

明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。大逆事件で処刑された12名の1人。生誕 1871年11月5日(明治4年9月23日)命日 1911年(明治44年)1月24日<< 戻る
寺院

法雲寺-静岡県浜松市西区

・法雲寺 臨済宗妙心寺派 静岡県浜松市西区雄踏町宇布見5332-1明治43年安寧寺末の小庵、正法庵・耕雲庵が合併し、両庵の法と雲をとり法雲寺となりました。正法庵・耕雲庵ともに記録が残っておらず、開創年代・開山禅師の略歴などは不明とされています。(リンク先より)※明治43年 1910年 << 戻る
人物

伊藤博文(いとうひろぶみ)

武士、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文。幼名は利助、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。号は春畝で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人を称して落款としても用いた。周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。内閣総理大臣(初・第5・7・10代)及び初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を...
人物

二葉亭四迷(ふたばていしめい)

小説家、翻訳家。本名、長谷川辰之助。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である。長谷川二葉亭とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。生誕 1864年4月4日(元治元年2月28日)命日 1909年(明治42年)5月10日二葉亭四迷<< 戻る
人物

由利公正(ゆり きみまさ/こうせい)

武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由。生誕 文政12年11月11日(1829年12月6日)命日 明治42年(1909年)4月28日<< 戻る
人物

榎本武揚(えのもとたけあき)

武士、化学者、外交官、政治家。最終階級は海軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。榎、釜を分解した「夏木金八」という変名も用いていた。世間では俗に「ぶよう」とも呼ばれた 。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京の牢獄に2年半投獄された。敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全...