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歌川国芳(うたがわくによし)

江戸時代末期の浮世絵師。画号は文政初年から万延元年にかけて一勇斎国芳といい、後に彩芳舎(文政中期)、朝桜楼(天保初年から万延元年)、雪谷、仙真とも号した。歌川を称し、狂歌の号に柳燕、隠号に一妙開程芳といった。『東都富士見三十六景』『宮本武蔵の巨鯨退治』『役者似顔絵六歌仙図』など多数。生誕 寛政9年11月15日(1798年1月1日)命日 文久元年3月5日(1861年4月14日)深修院法山信士<< 戻る
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法光寺-北海道幌泉郡

・法光寺 曹洞宗 北海道幌泉郡えりも町本町23明治10年以前の、法光寺に関する史実については、詳細の資料がないので明らかではないが、当地方の巡教は、道仙和尚によって行われたと思われる。この地方の曹洞宗は、えりも岬に説教所のようなものが文久時代(1861頃)からすでにあったといわれ、古文書でもあらわされている事もあり、当時70歳と言われる道仙和尚がその教えをえりも町一帯にひろめていたと思われる。法光寺裏の丘の歴代住職の墓地に、道仙和尚の墓碑が祀られていることも、これらを物語っている。(リンク先より) << 戻る
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清正公寺-東京都中央区

・清正公寺 日蓮宗 東京都中央区日本橋浜町2-59-2この場所は江戸時代には細川藩の下屋敷があったところで、文久元年(1861年)、細川斎護が熊本の日蓮宗本妙寺から勧請して創建しました。加藤清正を祀り、現在の堂宇は昭和34年(1959年)に再建されたものです。都営地下鉄新宿線浜町駅の上に位置する浜町公園内の一角にあります。 << 戻る
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龍澤寺-北海道札幌市北区(北海道石狩市)

・龍澤寺 曹洞宗 北海道札幌市北区新琴似町546-3・龍澤寺 曹洞宗 北海道石狩市厚田区古潭村2龍澤寺は、幕末安政の頃、記録には文久元年(西暦1861年)に函館市高龍寺第十八世住職大光海雲大和尚を勧請開山し開闢開山(初代住職)に萩原泰能師(後に古潭神社神主)を迎え、開基様(龍澤寺建立発願者)である古潭請負人平田興三右衛門様の御寄進により建立されました。(リンク先より) << 戻る
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徳川斉昭(とくがわなりあき)

江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)将軍徳川慶喜の実父である。藩政改革に成功した幕末期の名君の一人。しかし将軍継嗣争いで大老・井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。生誕 寛政12年3月11日(1800年4月4日)命日 万延元年8月15日(1860年9月29日)<< 戻る
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飯田忠彦(いいだただひこ)

幕末の徳山藩出身の国学者・歴史家。諱は初め恒憲、後に持直、忠彦と改名し、出家して黙叟と名乗る。通称は要人、刑部、左馬。字は子邦。号は環山、野史氏、夷浜釣叟。『大日本野史』の著者として知られる。生誕 寛政10年12月18日(1799年1月23日)命日 万延元年5月27日(1860年7月15日)志信院黙叟理現居士<< 戻る
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井伊直弼(いいなおすけ)

井伊直弼は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介、後に鉄三郎。諱は直弼。生誕 文化12年10月29日(1815年11月29日)命日 安政7年3月3日(1860年3月24日)宗観院柳暁覚翁<< 戻る
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西光寺、全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となる

万延元年(1860)、関白九條兼実から直筆の「石田殿」の額を下賜されてから、それまでは「石田山 西光寺」としていた名称を「石田殿 西光寺」としました。寺院としては全国で唯一の殿号で呼ばれる寺院となりました。<< 戻る
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吉田松陰(よしだしょういん)

武士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。安政元年(1854)海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した...
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橋本左内(はしもとさない)

江戸時代末期の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳、黎園。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』がある。14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、松平春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想した。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。安政5年(1858年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、松平春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて取り調べを受け、親戚の朧勘蔵の邸に幽...
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月照(げっしょう)

幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)住職となりました。しかし尊王攘夷主義に傾倒して公家たちや活動家たちと関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、幕府から危険人物とみなされました。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭しています。安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留ま...
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歌川広重(うたがわひろしげ)

江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。代表作『東海道五十三次』『名所江戸百景』生誕 寛政9年(1797年)命日 安政5年9月6日(1858年10月12日)<< 戻る
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島津斉彬(しまづなりあきら)

江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩11代藩主。島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・ 徳川家定の正室。 薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。生誕 文化6年3月14日(1809年9月28日)命日 安政5年7月16日(1858年8月24日)順聖院殿英徳良雄大居士<< 戻る
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徳川家定(とくがわいえさだ)

江戸幕府の第13代征夷大将軍。第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第1...
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京都大火により東本願寺両堂消失

1858(安政五)6月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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月性(げっしょう)

江戸時代末期の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村、妙円寺の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星巌・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた。生誕 文化14年9月27日(1817年11月6日)命日 安政5年5月11日(1858年6月21日)<< 戻る
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函館別院-北海道函館市

・本願寺函館別院 浄土真宗本願寺派 北海道函館市東川町12-12広如上人は寺院建立の公許を得るために、たびたび交渉せしめ、遂に安政4年(1857)10月24日、公許を得る。この日を本願寺派の北海道開教の日とする。(リンク先より) << 戻る
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阿部正弘(あべまさひろ)

江戸時代末期の備後国福山藩7代藩主。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。阿部宗家第11代当主。生誕 文政2年10月16日(1819年12月3日)命日 安政4年6月17日(1857年8月6日)良徳院殿高誉信義節道大居士<< 戻る
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全修寺-北海道岩内郡

・全修寺 曹洞宗 北海道岩内郡岩内町高台25全修寺は、北海道岩内町において、安政4年(1857)年に開教した曹洞宗の寺院です。写真を織り交ぜまして、全修寺や身替地蔵尊、三十三観音像などをご紹介しております。どうぞごゆっくりご覧ください。(リンク先より) << 戻る
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千葉周作(ちばしゅうさく)

江戸時代後期の武士、剣術家。北辰一刀流の創始者。周作は通称で、諱は成政。生誕 寛政5年(1793年)命日 安政2年12月10日(1856年1月17日)<< 戻る
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二宮尊徳(にのみやそんとく/たかのり)

江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。生誕 天明7年7月23日(1787年9月4日)命日 安政3年10月20日(1856年11月17日)誠明院功誉報徳中正居士<< 戻る
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藤田東湖(ふじたとうこ)

江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。生誕 文化3年3月16日(1806年5月4日)命日 安政2年10月2日(1855年11月11日)<< 戻る
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西方寺-奈良県大和郡山市

・西方寺 浄土真宗本願寺派 奈良県大和郡山市池之内町512記録によれば、安政元年六月十四日夜、西方寺の本堂は大地震によって倒壊いたしました。しかし、安政四年三月には見事に完成を見て、荘厳なる殿堂が再建されております。(リンク先より)※安政元年 1855年 << 戻る
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楞厳寺-山口県周南市

・楞厳寺 曹洞宗 山口県周南市湯野1929嘉永6年(1853年)3月13日、その日はここ牧村の地神祭の日。 村の若者数人がウサギ狩りのためにこの山に登った。その中の松田好松なる人物が山頂の土中にキラキラ輝くものを発見。これが今に伝わる黄金の聖観世音菩薩の尊像である。 当時、この山頂付近一帯は毛利家の家臣、堅田家のものであったが翌年、黄金仏の敷田として楞厳寺に寄進され、黄金仏も松田氏より楞厳寺へ奉納された。このことが『観音岳』と呼ぱれる由縁である。(リンク先より)<< 戻る
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水野忠邦(みずのただくに)

江戸時代後期の大名、老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。1841年から天保の改革を行ったことで著名。生誕 寛政6年6月23日(1794年7月19日)命日 嘉永4年2月10日(1851年3月12日)英烈院忠亮孝友大居士<< 戻る
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高野長英(たかのちょうえい)

江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲。号は瑞皐。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年7月4日、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。生誕 文化元年5月5日(1804年6月12日)命日 嘉永3年10月30日(1850年12月3日)<< 戻る
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葛飾北斎(かつしかほくさい)

江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。代表作『富嶽三十六景』『北斎漫画』生誕 宝暦10年9月23日(1760年10月31日)命日 嘉永2年4月18日(1849年5月10日)南惣院奇誉北斎信士(誓教寺)<< 戻る
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重恩寺-群馬県桐生市

・重恩寺 浄土真宗本願寺派 群馬県桐生市東2-8-41【本尊】 阿弥陀如来【開基】 多田立観 【開創】 嘉永元年(1848年)(リンク先より) << 戻る
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泉福寺-神奈川県川崎市宮前区

・泉福寺 天台宗 神奈川県川崎市宮前区馬絹1719当山の歴史は定かではありませんが、義天法印によって開基されたと過去帳に記されています。中興は智賢法印で、現在は30世にあたります。本堂は1847年(弘化4年)に老朽のため建て替えられ現在に至ります。当山の周辺は丘陵地が続き、田畑を耕すには厳しい自然環境でした。そのため、花や植え木の栽培を生業にしていた農家が多かったようです。宅地化が進んだとはいえ、近隣にはまだ、植え木栽培の農家が多く残っています。(リンク先より) << 戻る
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御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される

弘化四年(1847年)、現在の御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される。<< 戻る
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間宮林蔵(まみやりんぞう)

江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。 名は倫宗(ともむね)。 元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。樺太(からふと)が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。北海道から樺太、千島列島(ちしまれっとう)で20年以上生活した。生誕 安永9年(1780年)、または、安永4年(1775年)命日 天保15年2月26日(1844年4月13日)顕実院宗円日成大居士<< 戻る
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平田篤胤(ひらたあつたね)

江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎、家号を真菅乃屋。大角または大壑とも号した。医者としては玄琢を使う。生誕 安永5年8月24日(1776年10月6日)命日 天保14年閏9月11日(1843年11月2日)<< 戻る