【仏教用語/人物集 索引】

無我(むが)

投稿日:2018年8月31日 更新日:

”私”と認識されるものには永遠なる実体がないことを無我と言います。全ての物事に実体がないことを諸法無我と言います。常に変化する世界で、例えば、私の細胞は常に生き死にしています。水分を飲んで、食事して栄養は吸収し排出されます。適度な温度、適度な空気がなければ生きられません。私の実体はどこからどこまででしょうか?それらの周りの環境なしでは”私”は生きることが出来ません。

仏教は約2500年前にインドでブッダお釈迦様)によりはじまりました。インドで”我”とは「アートマン」のことです。アートマンとは、輪廻の主体と考えられていてます(仏教の教えではありません)。例えば、前世は鳥であったが、今世は人間に生まれた。そして、来世は何に生まれ変わるだろうかと考えられ、前世・今世・来世は、永遠なる実体があり、同じアートマンがつながっていると考えられていました。

「アートマン(我)」に対する仏教の言葉が「無我」です。現代日本の感覚で「我」は「私」です。「私とは何を示しているのか?」の定義をせずに、現代の感覚で単純に「無我」を理解しようとすれば、誤った理解になるので注意が必要です。「無我」という字だけを見て「私がない?」「私は今こうやって存在しているのに”無我”とはどういうことだろうか??」と思う方が多くいますが、一般的に”私”とは、「私の名前なのか」「私の身体の輪郭なのか」「私の服まで含むのか」「私の家まで含むのか」「契約書などのサインやハンコまで含むのか」定義は時と場合、人によっても違うかもしれません。これらの例は人間社会で生きていく上に必要な”私”です。

人間社会で生きていく上で”私”という認識は必要ですが、実はその”私”には実体がないというのが無我です。先の例のように時と場合で「私は」「私の」という範囲は違っていたことからも、”私”は都合よく「私という枠」をつくっていたり、「私という壁」「私という領域」などをつくっているだけです。この枠や壁、領域、つまり”私”は私が認識しているだけで、実際にはないものだと分かります。私がこうして生きているということは、様々な生きる条件がそろっているということです。逆に、生きる条件がそろわなくなれば、生きることが出来ません。私とは単独で生きることが出来ないということを無我と言います。

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