【仏教用語/人物集 索引】

親鸞聖人(しんらんしょうにん)

投稿日:1262年11月28日 更新日:

 
親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけて活躍した僧侶。浄土真宗の宗祖とされます。法然を師と仰ぎ「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行くことに力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられています。(以下、敬称を省略します。)

親鸞は1173年に、現在の京都市伏見区日野、法界寺・日野誕生院付近で誕生しました。お父さんは藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、お母さんは清和源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)と伝えられています。

9歳の春に、伯父の日野範綱(ひののりつな)に連れられ、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円のもとで出家・得度しました。この時、範宴(はんねん)と名のりました。

得度のお師匠さんである慈円は、歴史書『愚管抄』を記した人で、後に専修念仏の法然の教えを批判する一方、その弾圧にも否定的で、法然や親鸞を守ってくれることになります。

出家後、比叡山にのぼってからの20年間、主に横川の首楞厳院で不断念仏の修行をするお坊さんとして、ひたすら学問と修行に励みました。

1201年、29歳のとき、比叡山の修行では、悟りにいたる道を見出すことが出来ないと分かり、山を下ります。次に向かった先は京都、親鸞が尊敬する聖徳太子創建の六角堂で100日間の参籠(さんろう)をします。参籠とは、一定の期間、昼も夜もそこに引き籠(こも)って神仏に祈願することです。

95日目の暁、尊敬する聖徳太子の本地仏である救世観音からの夢告、つまり、夢の中に救世観音が現れ、直接言葉で指示を与えられて、東山の吉水で本願念仏の教えを説いていた法然の草庵を訪ねることになります。

100日間、法然のもとへ通い続け、ついには「法然にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」と思い、本願を信じ念仏する身となりした。

1205年、法然の『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のっていたのを善信(ぜんしん)と改めます。そのころ法然の教えに対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)されます。

1207年、法然の門弟4人の死罪、法然と中心的な門弟7人が流罪になり、親鸞は僧籍を剥奪され、越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のり、非僧非俗の立場に立つことになります。この頃、三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼と結婚、男女6人の子女が産まれ、在俗のままで念仏の生活を営みます。

42歳の時、妻子と共に越後から関東に移ります。常陸の小島や稲田の草庵を中心として、多くの念仏者を育てました。1224年ごろ、教巻、行巻、信巻、証巻、真仏土巻、化身土巻の6巻で構成される『教行信証』を著しました。

1235年、63歳の頃、妻子と共に京都に戻り、主に五条西洞院に住みました。京都では晩年まで『教行信証』を添削すると共に、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』など数多くの書物を著し、関東から訪ねてくる門弟たちに本願の心を伝えたり、書簡で他力念仏の質問に答えました。

1262年11月28日、三条富小路にある善法坊にて、親鸞は90歳で亡くなります。(新暦では 1263年1月16日であるため、「1263年」という資料もありますが、「弘長2年(と記述する場合)」=「1262年」で正しいと思われます。)

得度の師は慈円、教えの中心となる本師は法然ですが、後の浄土真宗という教団が成立していくのは、非僧非俗という独自の立場を確立したり、親鸞が自ら残した『教行信証』や和讃があったからだと考えられます。

生誕 承安3年4月1日(1173年5月14日・ユリウス暦)(1173年5月21日・グレゴリオ暦)

命日 弘長2年11月28日(1263年1月9日・ユリウス暦)(1263年1月16日・グレゴリオ暦)

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