法要を行なうということ

法要日記(供養/祈願/布薩)

お経を読んでいると瞑想状態になります。読経も瞑想の一種なのかもしれません。腹式呼吸で深く息を吸い込み、大きな声でお経を読んでいるのは、息を長く吐いていることと同じです。

読経しながら、木魚を打ち、大磬(だいけい)を鳴らし、お経の内容に沿って動作も加わるのですが、これを法要内で一人でも行ないます。複数人いる場合は分担して行うことが多いですが。

毎日そのように一人で行なっていると、半自動的に読経しながら、木魚を打ち、大磬を鳴らし、そうしながら来客に合図を送るということも可能になっています。身体に法要が身につくのでしょう。

しかし、半自動的に物事を行なえるということは良いことばかりではなくなります。それを行なっている意味を見失ってはいけません。法要を行なっていれば、鐘の音が聴こえてくれば、修行を行なっているなと外見からは思ってもらえるので、形式だけになるお坊さんが後を絶ちません。

半自動的に物事を行なえるのであれば、その行為を改めて意識することが大事です。木魚の音をよく聴き、大磬の響きに心を染み渡らせ、お経の内容を深く味わう余裕が出来るはずです。そのようなレベルになれる条件が整っているのであれば、より深い供養、祈願、布薩などの法要を行なえます。

▶ 供養依頼(1ヶ月、もしくは、1年間、毎日供養)

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