1858年

人物

月照(げっしょう)

幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。文政10年(1827年)、叔父の蔵海の伝手を頼って京都の清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)住職となりました。しかし尊王攘夷主義に傾倒して公家たちや活動家たちと関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、幕府から危険人物とみなされました。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭しています。安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して土浦藩士・大久保要や水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門らの支援の元、しばらく大坂に留ま...
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歌川広重(うたがわひろしげ)

江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓・広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。 江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。代表作『東海道五十三次』『名所江戸百景』生誕 寛政9年(1797年)命日 安政5年9月6日(1858年10月12日)<< 戻る
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島津斉彬(しまづなりあきら)

江戸時代後期から幕末の大名で、薩摩藩11代藩主。島津氏28代当主。今和泉島津家出身で斉彬の養女・天璋院は江戸幕府13代将軍・ 徳川家定の正室。 薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し国政改革にも貢献した幕末の名君である。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。生誕 文化6年3月14日(1809年9月28日)命日 安政5年7月16日(1858年8月24日)順聖院殿英徳良雄大居士<< 戻る
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徳川家定(とくがわいえさだ)

江戸幕府の第13代征夷大将軍。第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第1...
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京都大火により東本願寺両堂消失

1858(安政五)6月、京都大火により東本願寺両堂消失。<< 戻る
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月性(げっしょう)

江戸時代末期の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村、妙円寺の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星巌・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた。生誕 文化14年9月27日(1817年11月6日)命日 安政5年5月11日(1858年6月21日)<< 戻る
年表

井伊直弼が大老になり、アメリカ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を結ぶ

1858年、井伊直弼が大老になり、アメリカ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を結ぶ。神奈川・長崎・函館・兵庫・新潟の5港を開く。<< 戻る