1582年

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斎藤利三(さいとうとしみつ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。生誕 天文3年(1534年)命日 天正10年6月17日(1582年7月6日)陽剛院殿亡蹄利三居士<< 戻る
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明智光秀(あけちみつひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。越前の朝倉義景に仕えた後、織田信長に従う。細川藤孝(幽斎)と共に将軍足利義昭と信長の間を取りもち、公家との交渉で力を発揮した。信長の命で丹波(現在の福知山、亀岡、南丹、綾部、京丹波と兵庫県篠山、丹波の各市町)を平定し、福知山城(福知山市)を築城した。亀山城(亀岡市)から出陣し、信長を本能寺(中京区)で討つ。わずか10日余り後、天王山(大山崎町)の戦いで豊臣秀吉に敗れてその日に命を落とし、「三日天下」と言われるようになった。生誕 1528年頃命日 天正10年6月13日(1582年7月2日)秀岳院宗光禅定門前日洲条鉄光秀居士長存寺殿明窓玄智大禅定門<<...
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織田信長(おだのぶなが)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。三英傑の一人。全国統一を推し進めた。尾張の清洲の城主で1560年に桶狭間の戦いで今川義元をやぶった後、急激に勢力を強めた。1568年、足利義昭を助けて京都に上り、義昭を室町幕府の将軍にした。1570年には姉川の戦いで、浅井・朝倉の連合軍をやぶり、浅井氏、朝倉氏を滅ぼした。1573年に室町幕府第15代将軍の義昭を追放し、約240年続いた室町幕府を滅亡に追い込んだ。1575年、長篠の戦いで武田勝頼をやぶり、翌年、近江に安土城を築いて全国統一のための本拠地とした。しかし、全国統一まであと一息のところで、1582年中国地方の毛利氏を攻略する途中、本能寺...
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本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変。織田信長が京都の本能寺で明智光秀におそわれ、自刃。<< 戻る
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森蘭丸(もりらんまる/成利/なりとし)

安土桃山時代の武将。織田信長の近習。俗称は蘭丸。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死した。名前については異説が多く、幼名を乱(らん)とするものや、諱を長定(ながさだ)や長康(ながやす)とするものなど。生誕 永禄8年(1565年)命日 天正10年6月2日(1582年6月21日)月江宗春居士瑞桂院殿鳳山智賢居士正翁定是禅定門<< 戻る
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織田信忠(おだのぶただ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ、後継者と認められた。織田家当主二代目となる。武田氏を滅亡させた直後に本能寺の変で父・信長は本能寺、信忠は新二条御所にて自刃した。岐阜城主。生誕 弘治3年(1557年)命日 天正10年6月2日(1582年6月21日)大雲院三品羽林仙巖大禅定門<< 戻る
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武田勝頼(たけだかつより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、諏訪勝頼、武田四郎、武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。生誕 天文15年(1546年)命日 天正10年3月11日(1582年4月3日)景徳院殿頼山勝公大居士<< 戻る
便り

願正寺-大分県日田市

・願正寺 真宗大谷派 大分県日田市隈2-8-29天正9年(1582年)、西心和南により、現在地(隈町)に圓庵が結ばれました。以来、宗誓禅師、祐心律師、祐圓前大徳、釋永知と法灯は受け継がれています。 寛永12年(1636年)、初代住職となる大心庵釋祐心の願いにより、大谷本願寺13代宣如より「親鸞聖人御影」が下付されて、真宗寺院としての形が完成しました。(リンク先より) << 戻る
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長延寺-神奈川県横浜市緑区

・命帰山 長延寺 浄土真宗本願寺派 神奈川県横浜市緑区三保町2440開基玄栄法師は、武蔵国都築群小机城の領主笠原越前守信為の嫡子で、童名を竹丸という。天正10年(1582年)顕如上人、織田信長との和睦後故郷都築群吉田村(現在の港北区新吉田町)に帰り、一宇を建立する。上阪しその旨、顕如上人へ報告、方便法身の尊形および蓮如上人御真筆の六字名号と併せて、寺号長延寺、法名玄栄を下附され開基となる。(リンク先より) << 戻る
便り

安楽寺-東京都港区

・安楽寺 浄土真宗本願寺派 東京都港区芝1-12-181582年(天正10年) 安楽寺創建 ※「本能寺の変」の年1639年(寛永18年) 開基(一世)釋良信往生1923年(大正12年) 関東大震災の延焼により本堂消失1929年(昭和4年) 本堂再建(リンク先より) << 戻る
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長源寺-島根県松江市

・長源寺 臨済宗南禅寺派 島根県松江市東津田町1030長源寺が建てられたのは天正10年と伝えられており、開山は立翁廣本禅師大和尚(りゅうおうこうほんぜんじだいおしょう)です。同じく松江市にある南禅寺派宝亀山安国寺の中興です。中興とは、いったん盛んになったものが、また再び盛んになることをいいます。(リンク先より)※天正10年 1582年 << 戻る
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東照寺-山形県尾花沢市

・東照寺 曹洞宗 山形県尾花沢市大字富山543東照寺の前身は岩谷沢の宝珠山岩生寺という天台宗の寺でありました。その後、関谷に移り、廃寺になっておったところに、天正10年(1582年)向川寺12世 學應憲初大和尚様をご開山に招き、曹洞宗の寺院として現在に至っております。(リンク先より) << 戻る
便り

大用寺-神奈川県秦野市

・井宮山大用寺のホームページ 曹洞宗 神奈川県秦野市曽屋2-1-8大用寺は山号を井宮山(セイキュウザン)、寺号を大用寺とする曹洞宗の寺院です。御開山は、天正十年(1582年)、真翁宗達大和尚によるが、織豊時代の天正十九年(1591年)宗達遷化、と記録にある(リンク先より) << 戻る
年表

大友・有馬・大村ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る

1582年、大友・有馬・大村ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマに送る。<< 戻る
年表

山城(京都府)で検地を行う

1582年、羽柴秀吉が山城(京都府)で検地を行う。<< 戻る
年表

山崎の戦い

1582年、山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀をやぶる。<< 戻る
年表

勝覚寺-香川県東かがわ市

・勝覚寺 真宗興正派 香川県東かがわ市三本松426天正四年三好氏落城のとき、その家臣板西城主赤澤信濃守は中富川の合戦において討ち死にし、天正十年(1582)赤澤信濃守の一子正本法師が菩提を弔うため、大坂天満興正寺で証秀上人につき得度し、丹生の郷小砂村に小砂坊を開基したのが勝覚寺の始めとされている。(公式ページより) << 戻る