10月10日

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10月の出来事/有名人の誕生日・命日

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10月10日ご逝去 中陰からの忌日表

初七日忌 10月16日二七日忌 10月23日三七日忌 10月30日四七日忌 11月6日五七日忌・35日法要 11月13日六七日忌 11月20日七七日忌・満中陰・四十九日法要 11月27日百箇日忌 1月17日初七日からの七日毎の法要日は「命日前日」の曜日、百箇日は「命日翌日」の曜日と同じ曜日になるので、上記の日にちの確認と共に間違いのないよう曜日も確認してください。実際に行う法要は都合の良い曜日に繰り上げる、時間帯を調整することが多いようです。>> 年回忌法要が何年かを確認する<< 戻る
人物

中村元(なかむらはじめ)

インド哲学者、仏教学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。サンスクリット語・パーリ語に精通し、初期仏教の仏典などの解説や翻訳に代表される著作は多数にのぼる。「生きる指針を提示するのも学者の仕事」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことでも知られた。その例として、サンスクリットのニルヴァーナ(Nirvāṇa)およびパーリ語のニッバーナ(Nibbāna)を「涅槃」と訳さず「安らぎ」と訳したことがあげられる。訳注において「ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。」としている。国際的な仏教学...
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高村光雲(たかむらこううん)

仏師、彫刻家。幼名は光蔵。明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させ、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な役割を果たした。1889年(明治22年)から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、同年10月2日、帝室技芸員に任ぜられる。1893年(明治26年)には『老猿』をシカゴ万博に出品。1900年(明治33年)には『山霊訶護』をパリ万博に出品。1926年(大正15年)に東京美術学校を退...
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桂太郎(かつらたろう)

武士、陸軍軍人、政治家。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に首相を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。「ニコポン宰相」の異名を持ち、通算在職日数は2,886日。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、その翌年に病没した。生誕 1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉命日 1913年〈大正2年〉10月10日<< 戻る
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清河八郎(きよかわはちろう)

江戸時代末期の庄内藩出身の志士。田中河内介と共に九州遊説をして尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ、一方で浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。 幼名は元司、諱は正明、号は旦起、木鶏。本名は齋藤正明で、清川八郎と改名したのち、清河八郎を名乗った。生誕 文政13年10月10日(1830年11月24日)命日 文久3年4月13日(1863年5月30日)<< 戻る
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無住(むじゅう)

鎌倉時代後期の僧。字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた。 梶原氏の出身と伝えられる。『沙石集』は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全10巻となった。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり、1262年(弘長2年)に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し、80歳の時、寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、「話芸の祖」ともされる。生誕 1227年1月17日(嘉禄2年12月...