臨済宗

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桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)

室町時代後期の臨済宗の僧。薩南学派を形成した。桂菴 玄樹と表記される場合もある。 長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺の惟肖得巌や景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となって明に渡海して蘇州などを遊学し朱子学を究める。1473年、日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年、島津忠昌に招かれて大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で朱子学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481年...
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清巌正徹(せいがんしょうてつ)

備中(岡山県)出身の臨済宗僧侶。京都東福寺で書記をつとめる。和歌を冷泉為尹(れいぜい ためまさ)らに学び、多作家として知られる。足利義政に「源氏物語」を講じ、連歌師にも影響をあたえた。通称は徹書記。号は松(招)月庵。家集に「草根集」、歌論書に「正徹物語」など。「初心の程は無尽に稽古すべきなり」(「正徹物語」)生誕 永徳元/弘和元(1381)年命日 長禄3(1459)年5月9日<< 戻る
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保寧仁勇(ほねいじんゆう)

中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧。楊岐方会禅師に就いて嗣法。弟子には寿圣智渊、寿圣楚文、宝积宗映、景福日余など多数。保寧の勇禅師。・「保寧仁勇禅師頌曰、我仏親見賓頭盧、眉長髪短雙眉麁。阿育王猶狐疑、唵摩尼悉哩蘇嚧。(我仏親り賓頭盧を見る、眉長く髪短く雙眉麁なり。阿育王なほ狐疑す、唵摩尼悉哩蘇嚧。)この頌は、十成の道にあらざれども、趣向の参学なるがゆゑに拈来するなり。」(「正法眼蔵」見仏)・「保寧の勇禅師曰く、「眼睛なる常住物を護惜せよ」と。 之を敬重すること御饌草料の如くせよ。」(『典座教訓』2、心が整えば味も整う)生誕 命日 << 戻る
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楊岐方会(ようぎほうえ)

中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧。石霜楚円禅師に就いて嗣法。弟子には白雲守端、茶陵郁山主、石霜守孫、長慶顕瓊、君山守巽、法輪惟一、欽山智因、保寧仁勇など多数。語録に『楊岐會和尚語録』、『楊岐會和尚後録』、『楊岐會和尚語要』。筠州の古刹である九峰寺で出家得度し、諸国行脚の後、石霜楚円の門下となり、潭州瀏陽道吾山、瀏陽石霜山へと移り大悟する。筠州の九峰寺に戻った後、請われて袁州楊岐山の普明院の住持となります。楊岐派の祖として知られ、日本に伝えられた臨済禅のうち、黄龍派の禅を伝えた栄西禅師以外の全てがこの楊岐派に属することは特筆すべきことでしょう。・「楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらい有りし...
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臨済義玄(りんざいぎげん)

中国唐代の禅僧。諡は慧照禅師。曹州南華県の出身。黄檗希運に就いて嗣法。真定府臨済院。『臨済慧照禅師語録』黄檗三打の機縁で大悟する。・「慧照大師は、講経の家門をなげ捨てて、黄檗の門人となれり。黄檗の棒を喫すること三番、あはせて六十挂杖なり。大愚のところに参じて省悟せり。ちなみに鎭州臨済院に住せり。黄檗の心を究尽せずといへども、相承の仏法を臨済宗となづくべしといふ一句の道取なし、半句の道取なし。豎拳せず、拈払せず。」(「正法眼蔵」仏道)生誕 命日 咸通8年1月10日(867年2月18日)または、咸通7年4月10日(866年5月27日)<< 戻る