法然上人

仏教を本気で学ぶ

七高僧(しちこうそう)

七高僧とは、親鸞聖人が尊敬していたインド、中国、日本の七人の高僧のことです。①龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ/ナーガールジュナ) 【150~250年】②天親菩薩(てんじんぼさつ/世親/ヴァスバンドゥ) 【400~480年】③曇鸞大師(どんらんだいし) 【476~572年】④道綽禅師(どうしゃくぜんじ) 【562~645年】⑤善導大師(ぜんどうだいし) 【613~681年】⑥源信和尚(げんしんかしょう) 【942~1017年】⑦源空聖人(げんくうしょうにん/法然) 【1133~1212年】<< 戻る
人物

法然上人(ほうねんしょうにん)

建暦二年(1212)1月25日、法然上人80歳で示寂しました。「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の経文をとなえ、眠るように示寂されました。(法然上人の生涯についてはこちらの「 法然上人 」タグから確認出来ます)生誕 長承2(1133年)4月7日命日 建暦二年(1212)1月25日<< 戻る
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一枚起請文

『一枚起請文』は、建暦二年(1212)法然上人が、お亡くなりになる直前に、その弟子の一人である常随給仕首尾18年の門弟源智上人の念仏の肝要について「一筆書きとどめて頂きたい」という要請により書かれたものです。浄土宗の教えの要であるお念仏(称名念仏)の意味、心構え、態度について、とても簡潔に説明されています。本文中に「両手印をもってす」と書かれていることから、両手の判を押し、上人自身が証明していらっしゃいます。 法然上人のお誓いの文章であることから「御誓言の書」とも呼ばれ、大本山金戒光明寺に大切に保存されています。もろこし我が朝に、諸々の智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず、また学文をして念の...
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法然上人の帰洛

建暦元年(1211)11月17日帰洛を許された上人は、その月の20日、5年ぶりに京都の地をふみましたが、旧居吉水の禅房はほとんど荒廃していたので、『 愚管抄 (ぐかんしょう) 』の著者であり、兼実の弟にあたる青蓮院慈円(1155~1225)の厚意にあまえて大谷の禅房(知恩院勢至堂)に入りました。<< 戻る
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法然上人の配流

承元元(1207)年2月18日 専修念仏を停止し法然上人を土佐(実は讃岐)に、親鸞を越後に配流が決まり、安楽房遵西は六条河原で、住蓮は近江の馬淵で処刑されることに決まりました。配流の決定した上人は 還俗 (げんぞく) させられ藤井元彦という俗名が与えられました。時に門弟が上人に、「一向専修念仏を停止する旨奏上し、内々に念仏教化なされては」と申し上げたところ、上人は、「私は流刑を少しも恨んではいない。流罪によって念仏を辺ぴな地方に化導できることは、またとない結構なことである。これはまさに朝廷のご恩とうけとるべきではないか」とさとされました。「たとえ首をきられるとも、念仏のことだけは言わなければな...
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建永の法難

建永元(1206)年12月、門下の住蓮と安楽房遵西が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件により、法然上人はその責任を免れることが出来ませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、後に住蓮・安楽処刑。<< 戻る
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法然上人、九条兼実の別邸小松殿に移る

建永元(1206)年7月 九条兼実の別邸小松殿に移って庇護される。<< 戻る
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法本房行空と安楽房遵西を召しだす御教書

建永元(1206)年2月14日、法本房行空と安楽房遵西を召しだす御教書が発せられ、法然上人は行空だけを破門されました。ついで衆徒たちは五師三綱を代表にたて、宣旨の内容が寛大なることをするどくつくと共に、念仏禁断の宣旨をくだすべきことを院宣奉行の責任者三条長兼や摂政である九条良経を相手に交渉しました。<< 戻る
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専修念仏者の庇護を内容とする宣旨

元久2(1205)年12月29日、専修念仏者の庇護を内容とする宣旨が下される。<< 戻る
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興福寺奏状

元久2(1205)年9月、興福寺衆徒、後鳥羽院に念仏禁断の奏状に九箇条の過失を書きそえ強訴しました。法然上人およびその門弟、とくに法本房行空と安楽房遵西の処罰を強訴しました。その内容は勅許(ちょっきょ)を得ないで一宗をたてたこと、摂取不捨曼荼羅―専修念仏者だけが阿弥陀仏の光明によって救われ、これに対して念仏以外の諸善を行ずる者は光明を預からないことを絵画的に表現したものが流行していること、諸行をもって往生業としないで、称名一辺倒であること、最低の不観不定の口称念仏を勧めることは、最上の観念を捨てることであり、念仏の真意をあやまること、阿弥陀仏の名号やその浄土のことを説き示された本師である釈尊を...
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七箇条制誡

元久元(1204)年11月、法然上人は七箇条制誡(しちかじょうせいかい)をつくり門弟を誡め、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送りました。1.天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと2.無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと3.別解(べつげ)・別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと4.念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと5.ことごとに私義をとなえないこと6.痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと7.仏法にあらざる邪法を説いて正法とせぬこと<< 戻る
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元久の法難

元久元(1204)年10月、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を天台座主真性に申請しました。<< 戻る
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法然聖人と親鸞聖人が出会い弟子入り

親鸞29歳、比叡山では悟りに至る道を見出すことができずに山を下り、京都の六角堂に100日間の参籠(さんろう)をしました。尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためです。95日目の暁、聖徳太子の本地である救世観音から夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねました。100日間、聖人のもとへ通い続け、建仁元(1201)年3月、ついに「法然聖人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い、本願を信じ念仏する身となりした。<< 戻る
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選択本願念仏集

建久9(1198)年、法然上人は一部十六章からなる「選択本願念仏集」を撰述(せんじゅつ)しました。建久8(1197)年に九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」と懇請されたのに応じられ、門弟の感西や証空や遵西の三人に執筆の助手役をつとめさせ、撰述にとりかりました。建久9(1198)年の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。【第一】聖道浄土二門篇【第二】雑行を捨てて正行に帰する篇【第三】念仏往生本願篇【第四】三輩念仏往生篇【第五】念仏利益篇【第六】末法万年に特り念仏を留むる篇【第七】光明ただ念仏の行者を摂する篇【第八】三心篇【第九】四修法...
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聖光房弁長弟子入り

建久8(1197)年、後に浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房弁長(べんちょう) 、三十六歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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勢観房源智弟子入り

建久6(1195)年、後に法然上人に常随給仕する勢観房源智 (げんち) 、十三歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
便り

誕生寺-岡山県久米郡

・誕生寺 浄土宗 岡山県久米郡久米南町里方808熊谷法力房蓮生(熊谷直実)が建久4年(1193年)に師である法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたのがはじまりです。(リンク先より) << 戻る
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法然上人と九条兼実

文治5(1189)年8月、九条兼実と法文語および往生業を語る。<< 戻る
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大原談義

文治2(1186)年の秋、洛北大原の魚山大原寺勝林院で天台座主の職にあった顕真法印の発起により、南都、北嶺の名僧学匠三百余人を相手として、法然上人は念仏の教えについて論議された大原談義(大原問答)が行われました。論議は一昼夜に及び、念仏が他の行よりすぐれていることを法然上人が述べられたところ、顕真や論議参加した者は法然上人の教えを信じ、阿弥陀仏の周りを三日三夜念仏行道したと伝えられています。<< 戻る
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法然上人、平重衡に説戒

寿永3(1184)年2月7日、法然上人は平重衡に説戒する。<< 戻る
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法然上人、ただ一日のみ聖教を見ず

寿永2(1183)年7月28日、木曽義仲の軍勢洛中に乱入の日、ただ一日のみ聖教を見なかった。<< 戻る
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法然上人、東大寺大勧進職を辞退する

養和元(1181)年、東大寺大勧進職を辞退し、重源を推挙する。<< 戻る
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立教開宗(浄土宗)

承安5(1175)年の春、法然上人は宇治で『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』と出会い、称名往生に関する確信を得て専修念仏に帰す。比叡山の西塔黒谷を出て西山広谷に移り、しばらくして東山大谷に住房をうつす。(後の知恩院)。浄土宗「立教開宗」の年と言われる。<< 戻る
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法然上人、学匠を訪問

保元元(1156)年、求法のため洛西嵯峨の清凉寺に参籠、のち南都の興福寺に法相宗の蔵俊をたずね、醍醐に三論宗の寛雅をたずね、御室に華厳宗の慶雅をたずねなど学匠を訪問する。<< 戻る
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法然上人、法然房源空の名を受ける

久安6(1150)年9月、西塔黒谷にうつり慈眼房叡空 (えいくう) に師事。法然房源空の名を受ける。<< 戻る
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法然上人の修行時代

久安4(1148)年の春、功徳院阿闍梨皇円の指導のもとに「天台三大部」(『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』各十巻)を読み始める。<< 戻る
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法然上人の出家受戒

久安3(1147)年11月、比叡山の功徳院阿闍梨皇円の室に移り戒壇院で出家受戒。<< 戻る
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法然上人比叡山へ

天養2(1145)年の春、比叡山に登り西塔北谷の持宝房源光 (じほうぼうげんこう) に師事。<< 戻る
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法然上人仏門へ

永治元(1141)年春、父の漆間時国、預所 (あずかりところ) (荘園を領主から預かって管理する人)の明石定明の夜襲に遭い負傷、逝去。冬、菩提寺の院主である観覚の弟子となる。<< 戻る
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法然上人誕生

法然上人(ほうねんしょうにん)は、長承2(1133年)4月7日 美作国(岡山県)久米南条稲岡庄に生まれる。幼名は勢至丸。父は押領使(地方の治安維持にあたる在地豪族)の漆間時国、母は秦氏。<< 戻る